祈りと音について

先日、たまたまyoutubeでオダギリジョーが世界の様々な音楽を訪ねる「旅する音楽」を見ていたら、高野山真言宗の声明の場面が出てきた。

声明は、仏教音楽の一種で、簡単に言えばお経に節をつけて朗々と唱えるもの。僕は一時期高野山の南山進流の声明が好きで、高野山に通って声明を聞いたり、教えていただいたりしていた。

懐かしいなあと思い見ていたら、高野山の僧侶が声明を唱えるということについて、

・・・仏様に美しい音楽を捧げるという気持ちもございますし、お唱えするということは、自分自身もその声を聞いているわけなんですね。相互に、自分も唱えているわけなんですけれども、仏様からもその声をいただいていると・・・

という風に語っているのを聞いて、これはとても「祈りと音」について本質的なことだと感じた。

仏様に対して、お経を、音を、声を、一心に捧げる。捧げているんだけれども、あるときに、その声が、自分自身に「返って」くる。仏様に向かっていたはずのその「私の声」が、いつの間にか「仏様の声」になっている・・言葉では表現しにくいのだけれども、「自」と「他」が反転するような、ひとつになってしまうような、そういう不思議な瞬間のことはよくわかる。その時に、私自身というのは、実は私でない「何か」によって支えられているのだ、ということに、深く気づくことになる。

声や音というのには、そういう不思議な感覚を呼び起こす作用があるように思う。

また、そんなことを思っていたら、イスラム神秘主義の詩人、メヴラーナ ジャラールッディーン・ルーミーの「ライバッカ」という詩を思い出した。

・・・ある男が夜、一心に神を念じ、「アッラー!」と呼びかけていた。ところが、悪魔がやってきて、いくらそうやってお前が神に呼びかけても「ライバッカ ー われここにあり」の返事は神から返ってこないではないか。いつまでそれをやっているんだい、と言う。

意気消沈した男は眠りについてしまうのだが、その眠りの夢の中に現れた聖人が、神からの伝言を彼に伝える。それは、

おまえが「アッラー」と呼べば、それが私の「ライバッカ」である。おまえが胸に抱く想いも嘆きも憧れも、おまえの胸にあっておまえのものではない。それらは全てわれよりの使いであると知れ・・・見よ、おまえが送り届ける「アッラー」のひとつひとつに、われからの「ライバッカ」がひそませてあるのを・・・

出典:levha.net 「ライバッカ」

先の声明の話ととてもよく似た体験ではないだろうか。何かにこの身を捧げる、ということは、実は、ある時に、私自身がそれそのものであった、ということを悟るということなのだと思う。

何かの想いを音にのせる祈りがあるとして、その想いの答えが実は自分の内にある・・主観と客観、自と他が反転する時に、世界は「ひとつ」になる。そのような深い感覚が、音や、祈りの世界にあるのだと思う。

そういう大いなるものとひとつである、という感覚が、調和、なのだと思う。その調和の感覚を音で発しているということが、すでにひとつの祈りであり、そういう祈りをこの世界のどこかで今もしている人たちがいるということ自体が、意味があることなのだと感じている。

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