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"わからなさ"にひらかれるということ

Awakening voice - 魂のうた の活動を続けていく中で、「この声のワークを行うことにどういう意味(効果)があるのか?」ということを、どう伝えるべきか、ということを迷ったことがあった。

普通のヴォイストレーニングであれば、ある特定の目的のために特定のレーニングを行っていく。たとえば、特定の種類の音楽(オペラでも、地歌でも、お能の謡でも)のための発声法や、講演会、演劇のための発声法など、それぞれのシーンに応じて、必要な声の在り方を習得するために、トレーニングを行っていくことが普通だ。

Awakening voice - 魂のうた に関して言えば、「本質的な自己」とつながっていく、共振していくための発声です、ということは言えるけれども、では、「本質的な自己」につながるとどういう「効果」があるのか、と問われると、答えることが難しい部分がある。それは、人それぞれに違うからだ。

ある人は、日々の生活の中に深い安心感を見出すかもしれないし、ある人は、自己表現の中に新たな可能性を見出すかもしれない。またある人は、今まで悩みだと思っていたものが悩みでなくなり、自分自身への本質的な理解が生まれ、新たな人生のフェーズに踏み出すかもしれない。

そもそも、そういった深いレベルのリアリティーの出来事というのは、量子論の中で、ミクロの世界では素粒子が観測されるまでその物理的な位置が確率的にしか予測できないのと同じように、何が起こるか自我レベルでは予測や認知がしにくいことなのだ。声と向き合うことを続けていたら、本人が知らないうちに何かが変化していて、何年か後にふと気づくことだってことだってあり得る。

それは、「命」や「魂」といったものに触れる、ということは、その「結果」を「目的化」できないということなのだと思う。巷のスピリチュアルなワークやビジネスの中で、「こういった効果があります」と明確に謳われていることに長らくぼんやりとした違和感を感じていたのだが(けれどもきっとそれはそれで需要があるのだろう)、僕個人が感じている世界との差異は、そのあたりにあるのだということに最近思い至った。

「結果」を「目的化」できない、しないということは、コントロールを放棄するということでもある。その時、私たちは本質的な意味でより謙虚になれるのだと思う。そしてその謙虚さとは、私たちが「わからなさ」にひらかれるということにつながっていくのではないだろうか。これは、命や魂の世界を探求していく上でとても重要なポイントだと思う。

「わからなさ」にひらかれるということは、「わかる」ということの中に閉じこもるのでもなく、またそれを否定するでもなく、それと同時に、「わからない」ということに開き直るということでもない。それは、世界に対する身体の「ひらかれ」の感覚の中に、自分自身を常に微調整していくことなのではないかと思う。

それは「目的」と「結果」という閉じた系の中に自らを閉じ込めないということでもある。ハワイ生まれの私たちがセルフ・アイデンティティーとの繋がりを取り戻していくためのメソッド「ホ・オポノポノ」の第一人者の故・ヒューレン博士は、自分自身がホ・オポノポノを実践した結果、その「結果」を自分ではなく、この世界の誰が受け取っても構わないと語っていたことをふと思い出したのでその記事を貼り付けておく。

(この記事の中では、ヒューレン博士がホ・オポノポノの実践の結果を、私たちが見つけることができればできるほど、私たちはよりホ・オポノポノを実践するでしょうと語っていたことも付記している。そう、現世を生きる人間である私たちにとって、その「結果」を受け取ることもとても大事なことだ)

私たちはこの命のフィールドを通してつながっている。それは響きの世界から垣間見える、相互作用の世界だ。あらゆるところで行為が生まれ、そして結果が同時的に生起し続け、互いに生成変化し続けている。そのネットワークへのひらかれの中で、私たちは私たち自身の声の響きの中に何を聞き取るのだろうか。その中に存在する、生の不思議さ、神秘さに心躍らせながら。


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