見出し画像

066『ぼっち・ざ・ろっく!』、そして『ガールズバンドクライ』!⑤ ぼざろとガルクラ、それぞれのロック その2

 ぼざろとガルクラの比較論、少々ややこしくなってきましたが、今回は下記のnoteの続きです。

 上記で私が示したロック、今回との違いを明確にする言い方をすれば、ぼっちちゃんこと後藤ひとりとニーナこと井芹仁菜、二人の少女がそれぞれの物語で示したロック魂です。ぼっちちゃんは無様な姿を晒してでもギターボーカルで入ると思ってた、自分にはない陽キャの少女を引き留め、仁菜ちゃんは中指立ててまで、空しく都会の喧騒に消えるかも知れないのに「一緒に中指立てて下さい!」と、奇跡で出会えた憧れの人を焚きつけた。
 しかし劇中キャラの表現とは別に、作品としてのロックが両方のバンドアニメにはあって。それがタイトル画像に上げたそれぞれのカット。

 まずは『ぼっち・ざ・ろっく!』。標準的な表情は例えば以下の画像だけど、何故タイトル画像のようなカットを採用したのか。

後藤ひとり

 アニメファンとして薹(とう)が立ってる年齢の私は、かなり正確に、以後アナーキーとも過激とも表現できるぼっちちゃんの過剰表現の意味を理解できたと思いました。それはのたうちまわる主人公とともに、私が近年、求めていたアニメの形の一つだったからです。
 日本の商業アニメーションは東映動画の良心的なアニメ制作に虫プロが挑んだころから始まったと思いますが、マンガ発の劇画の潮流も無視できません。そしてアニメ『宇宙戦艦ヤマト』のキャラデザ、松本零士のフォルムそのものではなく劇画調にクリンナップされたキャラを採用したため、その影響が今日のキャラデザの主流になってるのです。
 しかしぼざろはその潮流に反旗を翻したのです。同時期には『リコリス・リコイル』、『ヤマノススメ Next Summit』、『Do It Yourself!!』などがあったけど、それらのキャラ造形に猛然と、「アニメは自由だ!」と、実作で示して見せたのです。「たかがロック」という戦略的な免罪符によって。
 作る方は多分、「ヤマノススメ」シリーズのように絶対数は少ないけど熱狂的なファンはつくと踏んでたと思う。しかしふたを開けてみれば「ぼっちちゃん可愛い!」となり、一躍バンドアニメの筆頭になった。つまり日本の視聴者、表現が的確であれば雑な絵でもファンになってくれると、それがロック表現としてのぼざろの成功と思うのです。

 今度は『ガールズバンドクライ』。確かに主人公は第一話でロック魂を見せたけど、物語としては上京物語の初回そのもので、中指立てる品のなさはあっても表現、絵面に過激があったか疑問なのです。つまりガルクラ、第一回に限っては万人向けで見やすい話と思えるのです。
 それが一端でもロック表現が垣間見えたのがタイトル画像、実は仁菜ちゃんがシーリングライトを投げまわす場面。凡そ万人受け、大衆の代弁者やヒーローを求められるアニメの主人公に似つかわしくない。しかし東映アニメーション、ガールズバンドアニメを作るにあたり、敢えて井芹仁菜という面倒くさい少女を主人公にした。
 シーリングライトをぶん回すほどにやり場のない鬱屈を抱えてる少女、それは未だに制度的に男女平等が実現されない日本の政治/社会に対する、日本の女性の意志/尊厳を体現したキャラクターと思うのです。アイドル路線に変更されたダイヤモンドダストは日本社会の生贄、その代表であり典型例と思うのです。
 だからこそのガールズバンドアニメでガールズバンドクライと思う。つまりガルクラ、少女たちによる日本社会への宣戦布告。今まで様々な少女が主人公の、ヒーローのアニメはあったけど、本作ほど時代の要請に応えた、答えてしまっているガールズアニメも珍しいのでは。

 しかしぼざろ人気が日本の世相の停滞を証左してしまっているように、ガルクラが刺さりまくっている日本の社会も決して幸福ではない。敢えて中途半端で終えることにします。


この記事が参加している募集

#アニメ感想文

12,480件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?