芸能人は人の鏡なのか。アスリートは人生の指導者なのか。
-芸能人とは。アスリートとは。
芸能人=芸をする人。何かひとつの芸に長けた人。
アスリート=競技に長けた人。試合、勝負に勝つ人。
つまりこれらは職人的な仕事。
ビジネスマンは仕事にもよるがマルチな仕事。
複合的に業務をこなす必要も多い。
シンプルに生きたいこともたくさんあるけど、
シンプルに生きれない時代、社会、環境でもある。
アスリートもそう。
本質は競技をすること。競技で強くなること。
しかし日本は社会の模倣であることを求められる。
ファンや子供たちに恥じない生き方を求められる。
本当に芸能人、アスリートは
模倣になることを求めることが本質なのか。
なんの正論なんだと。
-芸を極めること
芸能人もアスリートも
みんなや誰かの模倣になるためになったわけじゃない。
芸を極めるために日々鍛錬、訓練、練習を続けられる人。
その一芸が演技だったり歌だったり笑いだったりスポーツだったり。
歌手兼俳優みたいなマルチな才能もいる。
それこそマイノリティな才能の持ち主。
稀有だからこそ活躍できる。
容姿、体格、性格、
生まれ持ったDNA。
容姿も良くて
体格も良くて
声質、筋肉も優れて
操る神経も優れて
性格も良くて
人格も素晴らしい
そんな優れたDNAが世の中にどれほどあるのか。
生まれ持ったDNAを磨くことしかできない。
芸能人、アスリートは
ひとつの芸を極めること。極めていく人。
そう思うわけです。
-芸能人=教師になってる
芸能人とかメディアに出てる人が
模倣的じゃないことをするととことん叩かれる。
芸をすることが仕事、本質であって
日本人や日本の文化の模倣役でもないし
職業は教師でもない。
マルチとは対極的な一芸。
一つのことを続けることが得意な人。
これはマルチな人には超難関。
だから一芸を極める人ほど
人はリスペクトして応援できる。
一芸を極める→著名になる=人として模倣になる
間接的には深く関係があるでしょう。
でもこれは直接的ではないし
芸を磨くことの本質と関係性はない。
-1つの過ちに対する厳しい日本社会
人として正しくあるのは大切だし
それをもって生きている人は素晴らしい。
でも芸能人はひとつでも間違ったことをすると
エグいほどにメディアに叩かれる。
SNSで炎上が起こる。
どれだけ努力して
一芸を伸ばして
人を勇気づけても
感動させても。
あるときふと
一個の間違いを起こせば
公開処刑。
謝罪を求められる。
追放される人もいる。
命を断つ人も。
どんどん増えてる。
-それらの人は完璧なのか
なぜこれほどに叩くのか。
そんな完璧な人なんてそう多くはないでしょう。
誰だって息抜きもするし遊ぶし休むし
ネガティブな感情もある。
いたずら的な行動もする。
人ってそんなもんて思う。
芸人=人格者
じゃなくて
芸人≠人格者
という考え方でよくないか。
辛い事件、悲しいニュースを見てると思う。
時代が進むほど
特に日本は著名人に対して厳しくないか。
完璧を求めすぎてるのではないか。
-今の日本社会によく聞く言葉
自由主義、民主主義
自由に生きよう
個を尊重しよう
こういうビジョンのような言葉が飛び交う時代に
日々起こる現実に疑問を感じる。
言葉と現実がズレてないかと。
ただのキャッチコピーなのかと。
-芸能人≠教師
先日も著名人の記事を読んで
アスリートは模倣であるべき論に腹落ちはしない。
確かにその方はマルチな才能の持ち主。
自分はひとつ疑問を感じた。なぜ?
これこそ時代の象徴に見えたし
職業への偏見。
画一的な考えの助長だし
色々な綺麗事をキレイに混同して
なんなんだこの上から目線は。
その一面に衝撃的な印象を受けたし
リスペクトから余計ショックに感じた。
ひとつの疑問とは
芸能人は教師ではない。
そしてアスリートは人生の指導者ではない。
一芸に長けた人。
その芸が長けれる人ほどメジャーになる。
芸能人やアスリートを人生の師匠とは思わないし
自分はそれを求めてはない。
ただひとつの芸を極める人。極められる人。
そして教師、指導者こそ重要であり
専門的な職業であるべきと思うわけです。
-人の心を磨きたがる人になってないか
これからも人に模倣を求めて
監視的な画一的な社会にしていくのか。
日本特有の価値観に閉じ込めていくのか。
それとも寛容な心、個性を認める日本にしていくのか。
自分は後者であろうと思うわけです。
人の心を磨く前に自分の心を磨こうと
こういう時代だからこそ
改めて自分に言いきかせるわけです。
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