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カフェで充電器を貸した話

カフェで作業していると知らないお兄さんに声をかけられた。端の端のそのまた端とはいえ、芸能界に所属している身。数少ないメディア出演を見てくれたのだろう。ありがたいことだ。最大限の感謝と愛情を会釈に込める。だがそんなお兄さんが発したのは予想外の一言だった。

「iPhoneの充電器貸してくれませんか?」

聞けば、携帯の充電が0パーセントになってしまい困っているとのこと。嫌な感じの人でもなかったし、なにより不意打ちの展開に動揺していた僕は「いいですよ!」と二つ返事で充電器の貸し出しに応じた。ドリンクおごりますよ、という提案をスマートに断り、19時くらいまではここにいるのでそれまでに返してもらえれば、と伝えて作業に戻る。お兄さんは充電のできる席に移動したようだった。

知らない人からやたらと道を聞かれるという人がいる。おそらく無意識的に優しさや話しかけやすいオーラがにじみ出ているのだろう。そういう人は自然と他者と交流し、自然といろいろな出来事に巻き込まれ、世界を広げていく。何かと壁を作って狭い世界に閉じこもってしまいがちな僕は、かねてからそれをうらやましく思っていた。

だから、知らない人から充電器を貸して欲しいと言われたのは少し嬉しかった。僕も少しは人として優しくなれているのかもしれない。あまり好きな表現ではないが、人として「大人に」なれているのかもしれない(この“あまり好きな表現ではない”とかがいらないんだろうけど)。何にせよいいことではないか。

いつまでここにいようかと思っていたが、19時までいる理由ができるとむしろはかどる。集中力のなさには定評のある僕も、珍しくそれなりに集中して作業することができた。

そして時間は19時。5分前くらいからそろそろ充電器を返しに来る頃か?と意識していたが、未だお兄さんは現れなかった。おかしい。19時くらいまでいると言われた場合、普通に考えたらそれまでには返しに来るはずだ。次第に嫌な予感が頭に広がる。

もしかして持ち逃げされたのか?そう考えると確かにやりそうな人間だった気もする。知らない人からの頼みに気をよくしていたが、単にカモにされただけなのではないか。あいつなら逆らえないだろうと見くびられたのかもしれない。なんてことだ。たまに善意で行動するとするとすぐこれだ。こんなことなら断ればよかった。

畜生。盗んだ充電器で充電したスマホで動画を観て楽しいか。盗んだ充電器で充電したスマホで送ったLINEの「問題ありません!」は本当に問題ないのか。盗んだ充電器で充電したスマホでプレイする「ポケモンGO」でゲットしたピカチュウが電撃を発する様子を見て、お前は何も思わないのか。くそくそくそ。

大いに憤りながら店内で唯一充電ができるカウンター席に向かう。と、そこには机に突っ伏してぐうぐう寝ているお兄さんの姿があった。コンセントには僕の充電器がしっかりと刺さっている。その寝顔は赤ん坊のように穏やかだった。どうやら盗む気など全くなかったようだ。

よほど疲れていたのだろう。お兄さんは背中をつついても起きず、すいませーんと声をかけながら強めに体を揺するとようやく目を覚ました。寝起きの顔に一瞬困惑が浮かんだが、目に意識が戻った瞬間「あー!すみません!」と慌てて充電器を抜き取り返してくれた。しきりに礼を言うお兄さんに、全然大丈夫です、と余裕を見せつつカフェを出る。一旦盗人扱いしたことなどおくびにも出さない。僕にもそのくらいの常識はあるのだ。

「いいことをした」という満足感を胸に帰宅する。僅かではあるが、人として成長できたのではないか。誰かの助けになるのは嬉しいことだ。自分の存在を肯定されたような気がする。そういう意味ではお兄さんに感謝すべきなのかもしれない。ものすごく上手いことを言うと、充電器を貸したことで、僕が充電してもらったのだ。

さすがにスキップこそしなかったが、足取り軽く帰宅した。秋の気配を感じさせる涼しい風が心地よい。今年も夏が終わるな、とめちゃくちゃベタな感傷にふける。見上げた空に星は出ていなかった。そういえば台風が近づいてきているらしい。

道中、誰かに道を聞かれることはなかった。

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