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越智友亮『ふつうの未来』

名句はホームランに似ている。
柵を飛び越え観客席に飛び込んでくれば、どんな打球であってもホームランになる。そんな風に名句は問答無用に名句であると、僕は思っている。

グラウンドに落ちてしまった打球が、なぜホームランにならないのか考えるのは不毛だ。同様にどんなに技巧的に優れた句があり優れた発想があったとしても、それがなぜ名句にならないか考えるのも不毛だ。

ホームランだけがホームランなのである。

名句が飛び越えるべき「何か」とは、例えば、口に出しやすいリズムであるとか、句の覚えやすさ、であるとか、作者のキャラクター、印象深さ、であるとか、あるいは共感しやすさ、とか。あるいは、時代であるとか。

ゆず湯の柚子つついて恋を今している
冬の金魚家は安全だと思う
地球よし蜜柑のへこみ具合よし
古墳から森の匂いやコカコーラ
焼きそばのソースが濃くて花火なう

越智友亮は多くの名句を作った。

引用した句はすでにどれも人口に膾炙しているが、発表された当時は何となく素直に鑑賞し評価をすることが難しかった。

同時代の東京の似たような空気のモラトリアムのなかにいた僕にとっては、作者の肥大化した自意識や身体感覚、曖昧な外部世界の把握、両者のアンバランスさが、身近にありすぎたのだと思う。

だが、今こうやって時間の篩にかけられ、句集に収められている句を見ると、やはり彼は素晴らしい句を残したのだと思う。いいじゃん、越智友亮、と思う。いいじゃん。紛れもないホームランだ。

(ところで、彼の句を引いて、「現代の若者の」とするのは、かなり難があるように思える。個人的には、平成懐メロといったような趣きの方が強いが、どうだろうか。)

勿論、いつでもホームランを打てるわけではない。かといって、大人しくまとめるわけでもない。句集を繙けば、俳句っぽいものを俳句っぽく書くようなことはしていない。

だから、読んでいて、こっちが恥ずかくなるような、ちょっと痛々しい句もある。だが、それらの句も等身大というか、実感のこもった言葉で作られているから、読み手に届くものがあると思う。

それが成功しているかはわからない。けれども、新しいことを表現しようと、次に進もうという意思を僕は感じた。それは、今のこの時代に彼が俳句を作る意味でもあるのだろう。

最後に、

ひややっこ人並みに幸せである
枇杷の花ふつうの未来だといいな

もう僕たちの殆どに「ふつうの未来」なんてものは来ないだろうし、「人並みに幸せ」すら、心許ない。そのことに対して、怒ることもできるし、悲しむこともできる。冷笑を浮かべて俳句にすることもできる。

越智友亮は、ふつうの未来だといいな、とただ語る。そんなことをわざわざ言う作者の幸福と未来への静かな決意のようなものを、僕は祝福したいと思う。


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