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新刊のお知らせ『草雲雀』柳原極堂

『草雲雀』

新刊のお知らせをしたい。
「ほとゝぎす」を創刊した俳人、柳原極堂きょくどうの『草雲雀』を復刊した。

「ほとゝぎす」を創刊したのは、正岡子規でも高浜虚子でもなく、柳原極堂である…… ということを知る人は少ない。その句を読んだ人はもっと少ないと思う。本句集では絶版となっている柳原極堂の句集『草雲雀』より全句を収録した。

春風や船伊豫に寄りて道後の湯

温泉に馬洗ひけり春の風

うつくしき人に逢ひけり春の風

手のひらにいただく春の光哉

温泉帰りの手拭白し夏燕

大なる夕月かかり夏の街

極堂の最晩年に編まれた句集であり、初期から後期までの極堂の句業に触れることができる。ゆったりとした、大らかな句が並ぶ。ひらけた句の景色が心地よい句集。

『友人子規』抄

今回、草雲雀に加えて柳原極堂の『友人子規』を抄録した。『友人子規』は柳原極堂が“友人としての子規”を描いた回顧録である。

柳原極堂は1868年、伊豫国温泉郡(現・松山市)に生まれた。子規と同年の生まれ、同郷である。両者は中学時代から特に親しくなり、子規と上京を共謀し松山中学を退学した。

上京後は下宿屋が近くだったのもあり、上京時代には毎日のように会って遊んでいた。ある日、下宿屋に貸本屋がやってくる。その中から、子規が見つけたのは発句の本であった。それをきっかけとして、正岡子規は俳句に没頭していく。一方、松山に帰郷した極堂は新聞社に就職するものの、さまざまな巡り合わせにより、雑誌「ほとゝぎす」を創刊することになる——。

抄録について

今回の抄録では、極堂と子規との直接交流した箇所を中心に抄録した。その中から「ほとゝぎす」創刊時の逸話を紹介する。ある日、「ホトトギス」を黒焼きにするから分けてくれ、とお婆さんが発行所にやってくる……。
以下引用、

或日一人の婆さんがやつて来て、何んとか病の薬に黒焼にするのだからほとゝぎすを少々分けてくれと云ふ。私方のは薬には成りません、俳句ですからと答えると、其の肺病に利くことは私承知してゐるのだと云ふ。イヤ私方のは本なのですと断つても婆さん承知しない。効能書ですかには予も全く弱つてしまつて、ほとゝぎすを一冊投げ出して見せたので初めて合点したらしく、ハハアわかりましたと苦笑して出て行つた。四十年前の古いことではあるが、是れ位振つてゐるとなかなか忘られることでない。(「友人子規」柳原極堂より)

他にも、当時勤めていた新聞社で余った紙を「ほとゝぎす」に使用したり、蕎麦を奢って印刷工員を懐柔し印刷機械を動かしたり、など。時代に特有の荒削りな逸話が多く残っている。

今となっては笑い話だが、おそらく日本で一番有名な俳誌にこのような時代のあったことは、時にお行儀の良すぎる私たちに勇気を与えてくれることだろう。「新俳句」「新派」として世に出てきた「俳句」が、いつの間にか伝統の顔をし始めた時、その原点を見直してみることは決して無駄なことではないと僕は思う。


装丁はイワキマサシさん。若い人に手軽に読んでもらえるような装丁にしてほしいという此方の要望をもとに温かみをもたせつつ現代的でポップに仕上げていただいた。


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