見出し画像

♯2 生い立ち

私は、麓さん家の嫁 ikuyo。
物置の整理をしていて、義父 邦明、義母 逸子の思い出箱の中から出てきた沢山の恋文達。捨ててしまうにはもったいなくて、戦前・戦後の昭和を生きた2人の足跡をこのnoteに残してみようと思いました。思い出箱の中の品物と手紙を一つ一つ開いています。日記のように毎日交わされた恋文達。
よそものの嫁である私が、読んでしまうのはどうかとも思いながらも、愛を持ってnoteへ納めていこうと思っております。
フォロー頂けたら嬉しいです。


義父 邦明 昭和3年3月1日生まれ

父 麓香(M33年1月7日生) 母 押川ナツミ(M34年11月15日生)の長男として
宮崎県奥湯郡で生まれる。香さんは陸軍学校の先生だった。教え子から大佐階級の人々が生まれて行ったそうだ。ある意味戦犯を受けなければならなかった人だろう。とにかく優しく人格者だったと。この人を失ってはいけないと、周りの人々が守ったというエピソードを聞いている。

麓の性は鹿児島に多く、島津藩に麓の庄(関所のようなもの)があり、その辺りの出ではないかと思われる。
S10年~S16年家族で台湾におり、小中学校と台湾の学校へ通う。M28年〜S20年まで台湾は日本の統治下にあった。

S12年台湾

想い出箱の中に、就職活動の際の履歴書が入っていた。
ぴら〜っとした半紙に書いてある。当時はこんな感じだったのですね。
海軍兵学校に行っている時に終戦を迎えた。広島原爆のきのこ雲を呉の軍港から見たそうだ。あと一年戦争が伸びていたら、死んでいただろうと語っていました。
そして、18才第一高等学校へ入学。

父の履歴書

義母 逸子 昭和6年12月2日生まれ

父 高羽祥一郎(M38.11.3生)母 石川ミユキ(M44.2.9生)の長女として、
日本の統治下にあった朝鮮京城(現在のソウル)吉野町で生まれている。

逸子 生まれる


逸子の父 祥一郎は薬剤師で、研究者でもあった。その父の仕事の関係で京城にいたようだ。今はもう生産されていないが、お腹の薬「ミヤリサン」は高羽祥一郎が作った薬だそうだ。真偽の程はわからないけども、商売下手の祥一郎は全てのものを騙し取られてしまったのだと聞いた。
母ミユキは、おばあちゃんになってもとても美人さんであったが、若い頃何かの婦人雑誌に掲載されることがあるほど綺麗だったと。
この写真を見ていると、なるほどと思います。

母みゆきと逸子


想い出箱の中身は恐るべし。

国民学校の戦時下の教え。戦時中の品物がいくつか入っている。逸子にとっては忘れ難いものだったのでしょう。

夏の修練
夏の修練

わが統治下にある所を、赤くお塗りなさい。と書いてあるが、この時代の日本は他国を植民地とし統治していたことがよくわかる1ページ。父は台湾に住み、母は朝鮮で生まれる、そんな時代に生きていたんだと改めて認識する。

夏の修練

こんなものも入っていた。
学徒勤労動員(がくときんろうどういん)のバッチと証明書。母の思い出箱は、中々のヘビーさ。良くとってあるものだと感心するが、こういうものを見ていると戦争はそんな昔のことではないのである。

*学徒動員(がくとどういん)とは、第二次世界大戦末期の1943年(昭和18年)以降に深刻な労働力不足を補うために、中等学校以上の生徒や学生が軍需産業や食料生産に動員されたことである。

学徒勤労動員(がくときんろうどういん)のバッチと証明書

そう、そして逸子さんの小学校時代の通知表が全てとってあった。なんなら父の大学の通知表も入っていた。
思い出箱、もう最強です。昭和一色。なんなら匂いもしてくる。

そして通知表の中に聞き覚えのある名前が書いてあった。
担任訓導の先生のお名前。角谷いわほ先生
*訓導(くんどう)とは、第二次世界大戦前の日本の教育制度(旧制)における尋常小学校などの正規教員の職階の1つのことである。

逸子尋常小学校&国民学校の通知表

この角谷先生のご紹介で邦明が逸子の英語の家庭教師として高羽家へやってくるわけである。

S23年2人は出会う。 邦明20才 逸子17才

2人が結婚したのがS30年。学生の時に出会っているのだからというのもあるが、この時代7年もの交際期間というのは中々珍しかったようだ。
まだ残っている手紙やノートを読みはじめて、全体の半分にも至っていないが、読んでいると端々に感じ取れるものがあった。父は勉強はできて優秀な人ではあったが、まだ学生で海のものとも山のものともわからない。大学は奨学金で行っているので、当然ながら貧乏な学生時代だ。若い2人の思いはどんどん熱くなっていくが、周りの大人達はそんな2人をみてヤキモキしていたのであろう。

邦明20才 逸子17才

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?