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俺とやよい軒(前編)

今までの人生で、東京湾を8km泳がされたり、国指定の難病にかかったりと、さまざまな経験をしました。しかし、こんなにも早く自分の親父を失うとは思っていませんでした。
親父の葬式も終わり、落ち着いたので、親父との最後の1週間に書いていた日記を書き下ろしたものを投稿しようと思います。
これを読んで、今のうちに親孝行をしてみようとか、こんな感覚になるんだとか、誰かの人生の一助になればと思います。

この記事で頂いたサポートは、親父への供物に変えさせていただくことをお許しください。

11月10日(餃子の王将:天津飯)

午後1時を回った頃,お袋からLINEが来た。
前日夜遅くまで起きていたせいで,午前中頭が回らないなか、ランチミーティングをしていたので,日常的なLINEかと思った。
「今から帰ってこれる?パパが入院した」
いろんな憶測が頭の中を巡った。夏休みに帰った時に親父が一気に老け込んだように見えてから,何か不安に感じていた。
そろそろ家族でゆっくりできる時間も少ないと思い、年末に家族全員で旅行にいかないかと持ちかけたのがつい先週だった。

親父は俺が中学3年生の頃に胃癌を破傷しており、胃を丸ごと取り出している。その後はだいぶ良くなり、仕事にも趣味のゴルフにも精力的に取り組んでいた。俺が野球をやっている間は、野球を見に来るのを楽しみにしてくれ,成人してからは帰省するたびに一緒においしいものを食べ、一緒にお酒を飲むことをものすごく楽しみにしてくれていた。

そんな矢先だったので、本当に嫌な予感がした。すぐに職場と大学院で所属している研究室の教授に連絡し、リモートワークという扱いで実家に帰らせてもらえることになった。
すぐに家に帰り、しばらく滞在できる準備をして、10分ほどで家を出た。皮肉にも自衛隊で鍛えた即応力がこんなところで生きてきた。
新幹線では、次の日にある,プレゼンのスライドの準備をしていた。普段は外の景色を見るのがものすごく好きなのであるが、そんな気にならなかった。
「意識はあるけど、血液検査の値が悪い」というLINEが入った。なるほど、よっぽどなんだろうと察した。
焦る気持ちはあった。しかし.あせっても到着時刻は早くならない。わかっているが、頭が追いつかない。
外を見たら,日が落ちていた。

新幹線は品川で降りて、すぐに特急に乗って千葉駅に向かった。
変なところにケチな自分なら、普段は絶対使わない。使ったとしても、在来線のグリーン車くらいだ。
やることも思いつかなかったので、窓の外を見ていた。よく見ていた総武線沿いの景色が,いつもより速いスピードで流れていた。
千葉駅についてから,タクシー乗り場に向かった。久しぶりに降りた千葉駅はとても
変わっていた。多分こっちのほうだろうと思いながら改札に向かった。あってた。
タクシーの運転手さんに行先の病院を伝えた。運転手さんは返事だけして車を動かした。
それもそうだろう。このご時世の夕方6時に病院に向かう人に特別な事情がないわけない。
沈黙の時間が流れる。申し訳ないと思いつつも、自分に相手を気遣う余裕もない。

病院に着くと守衛室で面会の許可をもらっている旨と病室を伝えた。体温を計測し、手の消毒をして,病室に向かった。
ものすごく綺麗な病棟は最近新しく建てられたらしい。中学生の時に旧病棟行ったことがあるらしいが、記憶にない。
病室に入ると、親父とお袋、妹がいた。親父には点滴がついていたが、なぜか体の遠いほうに針が刺さっていた。
聞くと、全然ルートが取れず、何回も失敗してしまったらしい。針の刺さってない方の手は、内出血の跡が生々しかった。
「車買うって言ってたよな?俺のあげるわ。遺産はママに預かってもらうって形にしてあげて」と言われた。冗談なのか本気なのかわからなかった。お袋は苦笑いしていた。

その後お袋と二人になったタイミングで、主治医からの説明を伝えてくれた。大きく2つ。状態が良くなる見込みがないこと、もう家には帰れないだろうということである。頭が追いついていなかったが、とりあえずわかったと言っておいた。から返事もいいところだ。

親父は息切れしながら痛みと闘っている様子だった。苦しみながらも、語気には力があった。

特例で面会を認められているものの、20時には帰らなければいけない雰囲気であったので病院を後にすることにした。
主治医からは、いつでもいていいと言われたが、お袋の体力が持たないと思ったので帰ることにした。

帰りのバスでいろいろと状況を整理しようとしたが、全然できなかった。危うく千葉駅で降り損ねそうになった。
千葉駅で夜ご飯を食べるお店を探していたが、どこも閉まる時間が早く、実家の最寄駅の餃子の王将に行くことにした。
お袋は夜ご飯を食べることに乗り気ではなかったが、とにかくご飯と睡眠だけはしっかりとってほしいと思ったので、無理やり連れて行った。
ご飯を食べながらお袋が、ぼそっと「主治医に会わせたい人がいたら意識のあるうちに合わせておいてと言われた」と言った。いろいろと察した。

家に着いたらいろいろと考え込んでしまった。絵の才能も音楽の才能も運動の才能もなかった俺に野球をやらせてくれ、練習にずっと付き合ってくれた。昔から泣き虫だった自分は、素振りですら自分の思うスイングができなかったりするとボロボロ泣いていた。それでも親父は付き合ってくれた。リレーの選手には一回もなれなかったが、野球でレギュラーは取れた。合唱の時に先生から口パクを命じられるくらい歌が下手でも、グラウンドでは通る声だと褒めてもらえた。
オフには一緒に釣りに行って,社会人になってからは一緒にゴルフに行ったりした。いろんな思い出があったのが一気に溢れてきた。涙が止まらなかった。心の弱さは成長しなかったなぁと思った。

11月11日(やよい軒:カキフライ定食)

朝起きてランニングに行こうと思ったが、体が起きなかった。二度寝した。
起きて朝ごはんを食べて、お袋を親父のいる病院に送っていった。
親父はあまり寝れなかったらしく、痛みに耐えていた。トイレに行くのを手伝ったり、話したりしてたらあっという間に時間が過ぎていっった。
午後からオンラインでプレゼンがあったため、11時くらいに病院を出た。
一人になると感情の抑制がなかなか効かなくなり、いろいろ考えてしまう。もう会えなくなるのかとか、それでも一番悔しいのは親父だからとか、本当に解く面倒みてもらってたなとか。

家にかえってプレゼン資料の修正をしようと思っていたら寝落ちしていた。実家のネットは非常に遅く、待ち時間が多いため、ボーッとしていたらいつの間にか落ちてしまった形だ。
プレゼンは難なくこなし、とりあえず一呼吸置くことができた。窓の外を見ると日が落ちていたので、親父とお袋のいる病院に向かった。

病室に行くと、モルヒネの投与が始まっていた。医療用の麻薬である。よほど痛みが辛いらしい。親父の楽しみは、6時間に1回投与されるカロナール系の解熱鎮痛剤らしく,それが入るとすごく体が楽になると言っていた。
特に食欲もなく、家から持ってきたりんごが唯一のリクエストだった。本当にいたたまれない気持ちになった。親父と俺は食事が大好きで、お互い下賤な舌を持っていることを自覚していたため、ただひたすらにおいしいと感じるものを食べることを追求していた。長年連れ添った一番の理解者を失った感覚になってしまった。喪失感とはこのことかと思った。

20時になり、家に帰ることを伝えた。親父は少し口数が多くなっていた。病院を出ると冷たい風が吹いていた。お袋に飯を食いに行こうと誘った。病院の目の前にスーパーや百均などが入った平家のショッピングセンターがあり、そこにやよい軒があったのを見つけたので、そこに入った。お袋はバランスの良い食事が食べれるならと着いてきてくれた。メニューを見て、これなら大丈夫と言ってくれたので、病院から帰れる時は,できるだけやよい軒に連れていってあげようと思った。
俺はカキフライ定食を頼み、お袋はチゲ鍋定食を頼んでいた。唐揚げを1個くれたが、カキフライを1個持っていかれた。何も言えなかった。

家に帰ってからは、疲れが溜まっていたのか、何もやる気が起きなかった。日課の筋トレもできず、風呂に入って寝てしまった。

11月12日(やよい軒:カキフライの味噌煮定食)

朝、無理やり起きてランニングに出た。家の周りを8km走った。肉体的な疲労は軽く、いつもより良いペースで走ることができた。

帰ったら朝ごはんができていた。実家のありがたいところだ。今年初めてのサンマだった。そう言えばなかなか外に飲み歩いてもいなければ、一人暮らしで魚を焼くこともないのでそれもそうであった。しかし、しっかり自粛を決め込んでいたこともあり、何の後ろめたさもなく親父の看病につけたことを考えると、結果オーライである。他人の行動を責める気も咎める気もないのだが、こればっかりは自己管理の価値を感じざるを得なかった。個人的には、リスクをしっかり管理すれば、何をしても自己責任だと思っている。自分の場合は、家族のことや仕事上の立場がそうさせただけである。

妹がバイトが休みだったらしく、お袋と妹の3人で車に乗った。お袋はペーパードライバーで、妹は大学の入学祝いでもらったお小遣いで免許を撮りに行かず、海外旅行にいったので無免許である。必然的にドライバーは俺になる。
午前中は3人で親父の看病をした。みんなが来るのを楽しみにしてくれているらしく、いろんなことを頼んでくれる。こちらとしてもやりがいがあるので、非常にありがたい限りである。

午後からは、お袋が長期休みをとるために職場で引き継ぎをしたいと言ったので、車で送って行った。しばらくかかるとのことだったので、お昼ご飯を食べに行こうと思った。実家近くにいっぱいある田所商店というラーメン屋を食わず嫌いしていたのだが、お袋に勧められたのでいってみた。訓練で北海道に行った時に、なけなしの休日を使って行ったラーメン屋の味噌ラーメンがものすごく美味しくなく,それ以来一切味噌ラーメンを食べていなかったのだが、いろいろ選ぶのに頭を使うのも煩わしかったので、消極的選択でそれにした。久しぶりの味噌ラーメンは失礼ながら、思っていたより美味しかった。そう言えば親父がお袋とよく大学時代に行っていたラーメン屋に何回か連れて行ってもらったことがあるが、そこの味噌ラーメンは美味しかったなと思い出した。親父ともういけないのかと思うと、涙が出そうになった。しかし、ここで泣いてはただの変な人だ。ラーメン食って泣く人など正気の沙汰ではないと思われる。正気ではなかったが。なんとか涙を堪え、店を出た。マスクに助けられた。
その後近くで服を買いに行った。10日に急いで出てきたために、服は現地調達をしようと決めていたのである。しかしながら、俺は一人で服を選ぶのがとても苦手だ。鏡の前で合わせると、どれも自分に似合わない気しかしない。いつもは友達を連れて行くか、店員さんに任せてしまう。ご時世がご時世なので、店員さんに話しかけるのも気が引ける。一番目立ったシャツをとって,サイズだけ確認して支払った。後にお袋からは何それといわれ,親父からは俺も似たようなの持ってると言われた。話題を一つでも作れたのなら買ったかいがあった。

コンビニでコーヒーを買い、車に帰ってしばらく待ってるとお袋が戻ってきた。病院に戻り、親父の面倒をみた。
俺がいない間は大学の看護科学部に通っている妹が見てくれていた。親父はなかなかきつそうにしていた。
話を聞くと、ずっとこの調子だったらしい。

20時になり、病院を出た。夜ご飯はやよい軒だった。俺はカキフライの味噌煮定食を頼んだ。例の如くカキフライは1個お袋のもとへ行った。代わりに肉野菜炒めが帰ってきた。

家に帰ってから、筋トレをすると決めていたが、なかなか動けなかった。さすがに運転で疲れていたようだ。
いつもなら大阪の家と実家の間くらいであれば余裕なのだが、状況が違うようだ。
30分くらいメールを返したりして、気を紛らわせ、いやいや筋トレをした。日課ではあるものの、ハードなのでどうしても気が乗らない。
メニューは、HIIT20分、腕立て150+10回、腹筋セット10分、背筋セット6分である。家の誰も使っていない洋室で汗をだらだらかきながら勤しむ姿は異様極まりまい。

シャワーを浴びて寝た。よく寝れた。

11月13日(やよい軒:特からあげ定食)

朝起きた時の感覚は、前日より数段よかった。目覚ましに起こされるのではなく,自分で起きる感覚だ。
寒いけど、走れる時に走っておかないと。と思い、日課のランニングに出かけた。
前日のコースからちょっとアレンジを加え、神社に寄るコースにした。距離は変わらないのだが、アップダウンが激しくなる。
この時期の朝ランは、走り始めが一番きつい。汗をかいてくると寒さなんて関係なくなってくる。
しっかりと5分/kmのペースを守り、神社に着いた。しっかりと正面から入り、手水をとる。
柄杓がない時の正しい作法なんて知らないが、神様もさすがにそこは許してくれるだろう。
神社では、お願いよりも決意表明をするものらしいが、苦しい時は神頼みに限る。
もちろん親父の苦しみをとってほしいという願いなのだが。蛇足で、俺は家族のサポートをちゃんとすると付け加えておく。

家に帰ったら、例の如くシャワーを浴びて,朝ごはんを食べる。俺が作り置きをしておけば、お袋の負担が少しでも減るのではと考え、その提案をしたら、快く受け入れてくれた。スパイスカレーが食べたいと言われたので、今日の献立が決まった。ありがたい。

準備をして、病院に向かった。日差しが暖かかった。海の方の道を走って行った。通勤時間なので、車の量も多かったが、広い道は運転していて楽であった。病室に着いて親父と寝れたかどうかの確認や何気ない会話をした。採血をしたとのことだった。それをきいて、いろんな予想がたった。後にこの予想は当たることになる。親父の目にはまだしっかりとした強さがあった。ひいひい言いながらトイレに行ったり、痛くない位置を探して寝返りを打ったりしていた。

しばらく親父の世話をしていると、担当の看護師さんがきて、モルヒネの基礎量をあげてくれた。これで少しは楽になると思いますという言葉と、そのタイミングでさっきの予想が現実になるなと思った。トイレに行きたかったが、我慢して部屋にいることにした。

主治医が部屋に来てくれ、朝の採血の結果を持ってきてくれた。治療の結果、改善が見られず、検査の値は悪くなってしまった。主治医から親父に、もう病気に対しての治療をすることはできず、これからはどう苦痛をとって最後を迎えるのかという問題になってくると説明があった。もう家に帰れることもないだろうとも。お袋は押し殺すように泣いていた。俺自身もマスクの中がぐちゃぐちゃになっていた。一番悔しくて悲しのは親父であることあんんてわかっていた。我慢しようとは思ったが、我慢しきれなかった。親父は、人工呼吸器や心臓マッサージで延命はしないでくれ。意識がなくなったらそのままいかせてくれと言った。情けないところを見せたくないという親父の男気は、責任を持って応援しようと思った。

主治医が部屋から出てからは、変な沈黙と親父の語りかけるような独り言の他は,しばらく何もなかった。貯金がどのくらいとか、ストックオプションがいくらくらいとか言っていた。確かに大事な情報ではあるが、あまり聞く気になれなかった。

昼前になったので、研究の続きや家のことをやるために一度帰宅した。PCをカタカタしながら色々考えたが、主治医が親父に正直なところを伝えてくれたので、親父は死に対して正面から向かう姿勢を見せてくれたし、俺たちも変な突っ掛かりが取れた気がして少し気持ちが楽になった。寝落ちしそうになったタイミングで、親父から家にあるDVDを持ってきてほしいと頼まれた。親父はテレビドラマを見るのがものすごく好きなのだ。テレビをほとんど見ない俺とは真逆である。慣れないながらも感覚でレコーダーをいじり、HDDに入っているデータをDVDにダビングした。ダビングに思ったより時間がかかりそうだったので.カレーを作ることにした。得意なキーマカレーである。少しでもスタミナがつくように、ニンニクを多めに入れておいた。病院ではマスクをしているし、なんとかなるだろう。夕方にお袋から夕日と富士山の写真が送られてきた。病室から見える景色らしい。とても綺麗だった。最後を迎えるまで過ごす部屋が、良い景色なのは何よりもの救いだ。

病院に戻ると、親父はピンピンしていた。モルヒネが調子いいらしい。昔俺が一番良かった時のバッティングフォームに関して語ってくれた。俺が来年からまた硬式野球をやることを伝えたらとても喜んでくれていた。言葉の一つ一つが本当に元気で、午前中に人生の終わりを示された人とは思えなかった。そんな調子でいたら、時間が来てしまったので、帰ることにした。夜ご飯はやっぱりやよい軒だ。俺は、唐揚げ定食にするつもりだったのだが、券売機のディスプレイで真横に特唐揚げ定食があり、誘惑に負けてそっちにしてしまった。お袋は笑っていた。

家に帰ると疲れもあるのか30分くらい動けなかった。しかし、筋トレはしようと思って,洋室にいった置いてあるバットを使って親父がいてたことを再現してみた。確かに、俺のフォームを一番長くみているだけあって理にかなっている。しっかりと頭に叩き込んで筋トレに移った。前日の疲労が溜まっていたが、気合いで乗り切った。その後、シャワーを浴びて寝た。


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