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俺とやよい軒(後編)

今までの人生で、東京湾を8km泳がされたり、国指定の難病にかかったりと、さまざまな経験をしました。しかし、こんなにも早く自分の親父を失うとは思っていませんでした。
親父の葬式も終わり、落ち着いたので、親父との最後の1週間に書いていた日記を書き下ろしたものを投稿しようと思います。
これを読んで、今のうちに親孝行をしてみようとか、こんな感覚になるんだとか、誰かの人生の一助になればと思います。

この記事で頂いたサポートは、親父への供物に変えさせていただくことをお許しください。

11月14日(やよい軒:チキン南蛮とエビフライの定食)

朝起きた。ギリギリ起きられた。確実に疲れは溜まっている。でも走らないとすぐ体に出てしまう。
ランニングコースを変えてから、2日目のランニング。神社に行くからと自分を奮い立たせる。
朝ごはんは前日作ったカレーだった。チーズを乗せてオーブンで焼いて、焼きチーズカレーにした。
なかなか美味しかった。ニンニクは、ちょっと多かったかもしれない。
大学の看護学部の3年生の妹は、実習の関係で2週間の休みらしく、バイト三昧の予定だったらしいが、事情を話し、半日にしてもらったらしい。
午前中はお見舞いに行くと言ったので、3人で病院に向かった。

土曜日の病院は全然人がいなかった。診察もない上に、特別な事情がない場合のお見舞いはできないので当たり前と言ったら当たり前なのだが、空間の多さは時に不安を煽る。
11月とは思えない暖かさだったので、上着を脱いで歩いていた。病室は空気の流れが悪く、少し暑かった。
家から持ってきた飲み物や、りんごなどを冷蔵庫に入れたり、着替えをロッカーに入れたりしていた。慌ただしい時間が流れるのを親父は眺めていた。
お袋が親父に調子はどうか、昨日はねれたかなどを聞く。妹がそれにちゃちゃを入れるのだが、どうにもテンポがわるい。
いろんな話をしながら午前中の時間が過ぎていく。親父は30分に1回くらいトイレに行くのだが、行くたびに毎回キツそうである。
11時になった。妹がバイトに行かなければいけない時間になったので、近くのターミナル駅まで送っていくことにした。

車の中での会話は、俺たちらしい会話だった。もし俺たちが結婚するときは、式に親父はいないのかとか、妹は、もしそうなるなら俺に親父のお面をかぶってもらうとか、くだらないながら悲しい会話をしていた。
それも悲しかったが、お互い結婚は遠いだろうなという結論になってしまったのも悲しかった。もともと宮下家は、結婚を急かす文化は全くない。それに甘えていたのか、自分の魅力のなさを棚に上げていたのかどうかはわからないが、この歳まで結婚はできなかった。

家に帰って、パ・リーグのクライマックスシリーズをみながら大学院の研究をしていた。俺は、2歳の頃から千葉に住んでいて、物心着いた時からロッテファンであるが、親父は巨人ファンである。
夏休みに帰ってきた時は、お袋と晩酌しながら巨人戦を見るのが日課だと言っていた。野球のことがよくわかってないながらも、巨人の選手がいいプレーをするととても喜ぶお袋と、それをみながら原監督の起用にあーだこーだ言っている姿は、控えめに言ってとても仲睦まじいものであった。家族ラインが動く時も、大体親父とお袋が一緒に野球を見に東京ドームに行った時の写真が送られてくるときだ。
ちなみに研究はほとんど進まなかった。頭が全然回らなかったのと、ロッテがなかなか辛い試合展開をしていたことが原因である。いま頑張っておかないと、修論提出前にものすごく苦労する羽目になるのだが、期限前に焦るのは昔から変わらないので、諦めている部分もある。

気づいたら、病院にいくと決めていた時間になったので、車を出した。土曜日の昼間であったが、車の量はそこそこであった。
一人で運転している時間は、俺の最も好きな時間のひとつだ。運転のこと以外に何も考えないので、非常に気が楽である。
しかし、病院に行く時は、色々考えてしまう。ふとした拍子にいつもと違うリズムで運転してしまい、危ない瞬間がある。
免許を取ってから、無事故無違反であるものの、こんなところで事故をしてしまえばいろんなところに迷惑をかけてしまう。そんなこと誰も望んでいない。

病院に着いた。親父は、便が出ない不快感に悩んでいたらしい。また、ベットで寝ていると苦しそうにしており、腰痛やガスがお腹に溜まっている感覚があるらしい。
椅子に座った方が楽かもしれないと言って、病室にある椅子に座って、机にうつ伏せになったりしていた。モルヒネの効果なのか、会話の途中にふっと寝てしまうこともある。しかし、寝息はとても浅く、時折ゲップをするように息を吐いていた。
その日の担当は入院当初からよく見てくださっている看護師さんであった。親父を気遣ってか、何回も病室にきてくれ、要望を聞いてくれた。親父は、あまり他人に頼るこが好きではない性分なので、遠慮をしていたものの、肘掛けのある椅子なら寝落ちできるかもしれないと、看護師さんにいっていた。外来の治療室にあるソファーみたいなものが欲しいと言っていたが、備品関係を動かすのはなかなか大変なようで、結局車椅子になった。親父はできる限りの要望に応えてくれて嬉しいと言っていた。俺も、本当に感謝の気持ちでいっぱいであった。
車椅子に移り、タオルケットをかけ、手の届くところにナースコールを置いた。親父が寝れそうだったので、お袋と俺は病室を出ることにした。

夜ご飯はやよい軒に行った。チキン南蛮を食べることは決めていたが、誘惑に負けて、エビフライがついているのにしてしまった。お袋はまた笑っていた。
家に帰ってから、筋トレと素振りをしてシャワーを浴びて寝た。なんかとても体が重かった。

11月15日(やよい軒:鉄火丼)

夜中に一回目が覚めてしまった。すぐに寝付けたものの、朝起きた時の感覚は最悪だった。
3日連続でワークアウトをしているので、今日はオフにすることにした。無理だけは絶対にしない。
朝ごはんは、カレーの残りであった。妹がとても喜んでいたのを見ると、やっぱり美味しいらしい。
今日は何を作って欲しいか聞いた。お袋は俺の作るチャーシューが好きらしいので、それを作ることにした。
冷蔵庫の古い卵も茹でて味付け卵にできるので、一石二鳥である。

いつも通り、病院に向かった。日曜日の朝8時の道はスムーズであった。世の中のお父さんはまだ布団の中だろう。一部のはゴルフに向かっているかもしれない。
コンビニでエナジードリンクを買った。ひさしぶりに飲んだが、いつもと変わらない味がした。

病室に行くと、親父はベッドにいた。結局そっちの方が寝られたらしい。それでも、15分に1回くらい目が覚めてしまうと言っていた。夜が長いとも言っていた。
午前中は親父の会社の方が病室に来た。お見舞いというよりは事務的な手続きや引き継ぎが目的であった。
親父は今の会社に中途採用で入り、営業で頭角を表した結果、36歳で支店長に就いた。その後、出世街道を進んでいたらしいが、可愛がってくれていた上長が派閥争いに巻き込まれ失脚し、その後の道が曖昧になったと聞いている。
しかし、実力は買ってもらっていたため、大事なポストを転々としていたと聞いている。今年も、本社に所属しながら、実家から近い営業所に席を置き、病院に行きながら仕事ができるように融通してもらっていると聞いていた。
親父の会社の方が来た。小さい頃から一緒に遊んでもらったりしていたので、顔を見るだけで安心する。俺のことをいまだにしょうちゃんと呼んで、可愛がってくれる。
俺とお袋と妹は席を外した。いてもいいとは言われたが、そこら辺は流石に気を遣う。人通りの少ない外来のラウンジで時間をつぶした。お袋と妹は.マイナンバーカードの申し込みをしていた。お袋の写真を撮ったときに、自分の顔を見たお袋が老けてると嘆いていた。元々年相応に身だしなみを整えておくことが一番であると言っていたお袋なので、少し意外な発言であった。

病室に戻ると、親父と会社の方と俺で様々な確認をした。親父の残った有給や、給与補償などに関してである。今年いっぱいは有給が持つと言っていた。そのあとは給与補償に頼ることになるとも言っていた。確定事項以外は決して信じない性格の親父なので、死ぬ時期が決まっていない限りはちゃんと準備をするということである。俺もその性格は引き継いでいる自覚がある。その後、年末調整の話などをしていた。バイトがあると言って,妹は途中で帰った。
一通り話が終わると、会社の方が帰ることになったので、見送った。病室の外で一言二言話したが、親父から会社の方にもう戻れる見込みがほとんどないということは伝えていたらしい。何かあったらよろしくと伝えた。会社の方は目が赤く言葉に詰まっていた。しばらくして、俺も家に戻った。

家に帰って、野球をみながら研究をした。並行してチャーシューを作っていた。普段なら簡単に作ってしまうのだが、珍しくそこを焦がしてしまった。
親父との思い出を書き起こしていたら、チャーシューに大事なタイミングを見逃してしまった。幸い、表面の一部をこそぎ落とせば全然美味しかったので、焦げたところをつまみ食いして、おいしいところを冷蔵庫に入れた。
煮汁は味付け卵に使おうと思っていたが、それも焦げ臭かったので、めんつゆにつけて冷蔵庫に入れた。

病院に戻った。親父は午前中に頑張っていたようで、寝ていた。それでもすぐに起きてしまうのだが、すぐに寝落ちしていた。お袋は献身的に体をさすってあげたり、トイレに行くときのサポートをしてあげたりしていた。本当によく頑張ってくれていると思う。
親父も起きるたびに俺と会話しようとしてくれたりしてくれていた。時々よくわからないことを言い出すのだが、モルヒネが聞いている証拠だと自分に言い聞かせる。
親父が寝る準備をするといったので、枕や布団を親父の指示通りに動かし、電気を消した。足音を殺して、病室を出た。
やよい軒はいつもより空いていた。筋トレをオフにしたので、気休めながら鉄火丼にした。唐揚げをつけてしまったが。

家についてからは、疲れと眠気に襲われ、シャワーを浴びたらすぐに布団に入った。寝付きは悪かったが、日付が変わるまでに寝られそうだった。

11月16日(やよい軒:生姜焼き定食)

ものすごく眠りが浅く、嫌な夢を何回も見ながら寝たり起きたりを繰り返していた。夢自体は覚えていないのだが、今までの嫌な記憶を詰め合わせたような内容だった気がする。
おかげで朝起きるのがすごく楽だった。諦めがついてすぐに走りに行くことができた。アップダウンのあるコースを走って、自分の調子を確認して体の感覚をフラットにする。
5年くらい習慣にしているので、何かおかしかったらすぐにわかる。
家に帰ったら、チャーシューと煮卵が机の上にあった。シャワーを浴びている間にだいぶ減っていた。妹が気に入ってすごい勢いで食べたらしい。
もう少し食べたそうにしていたが、お袋が俺に気を使って遠慮させていた。俺は、気遣いに感謝して、妹に俺の分なんて考えずに好きなだけ食えと言った。妹は笑顔になって切れ端を1つつまんでいた。

いつも通りの時間に家をでた。今日は海沿いの道で行くことにした。そこそこ車の量はあったが、ストレスを感じるほどではなかった。
コンビニに寄って親父の飲み物とお袋の昼ごはんを買った。俺は栄養剤を買った。
車の中で、お袋に4人で写真を撮ろうと提案した。親父は嫌がるかもしれないけど、撮れるうちに撮っておこうと。
お袋はそんなに焦ることはないと言った。確かにそれもそうだ。

病室についた。親父は、ゆっくり話しかけて欲しそうにしながらも、来たことを喜んでいるようであった。体勢を変え、俺たちの顔を見ようとしていた。
ポレポレしながらではあるが、色々話そうとしてくれた。ノーベル賞を取れそうなネタを思いついて、メモを取ろうかと思ったが、文字にできないし、文字が上手く書けないと言っていた。
実際に手帳を見てみたが、文字らしきものはなく、紙には無数のミミズが這っていた。これを解読してしまえばノーベル賞を取れるのかもしれないが、俺はそれより大学院で修論を書くためのアイデアが欲しい。
会話の途中に寝てしまったり、記憶の時間軸が曖昧にはなっていたが、俺たちのことをしっかりと認識してくれていた。
親父は30分に1回くらいの割合で立ち上がって自分の足でトイレに行くのだが、その度に息を切らしてキツそうにする。諦めがついたのか、尿道カテーテルを使って、トイレに行く必要をなくすと言った。
すぐに看護師さんが来てくれて準備をしてくれた。看護学部に通っている妹が手伝うと言って病室に残った。親父がコーヒーを飲みたいと言ったので、俺とお袋は待っている時間を使って1階にあるドトールに行った。
処置が終わったとの知らせを受けて、4人分の飲み物を持って病室に戻った。尿を入れる袋には,血が混じってオレンジ色になった液体が入っていた。
そんなことをしていたら昼時になったので俺は帰途についた。ご飯を作る役目もある。買い物もしなければいけない。親父に家の近くに売っているリンゴを買ってきてくれと言われた。珍しい親父の頼みなので全力で答えようと心に決めた。たかがリンゴを買うためなのだが。

家に帰る途中にスーパーに寄った。お袋がスパイスカレーを食べたいと言ったので、バターチキンカレーを提案していた。採用されたので、その材料を買った。
途中でうどんを食べに丸亀製麺によった。並を頼んだのに、思ったより多かった。食欲がないのか、それとも丸亀製麺のサービス精神が旺盛なのか。
家に帰ってから拙い集中力を使ってやらなきゃいけないことを消化していった。途中でカレーを作ろうとしたが、玉ねぎとトマトを焦がしてしまった。初めての経験である。
できてしまったダークマターは別容器に取り、もう一回作り直した。2度同じ失敗はしなかった。美味しいカレーができた。いつか親父も食ってくれるといいななんて思っていた。
その後、タスクの処理に集中していたらいつの間にか病院に行く時間になっていた。ついでにリンゴを買って病院に向かった。

病室に着くと親父は気持ちよさそうに寝ていた。ベットをエアーマットに変えてもらったらしく、だいぶ寝やすくなったようだ。
しばらくすると起き上がって、明日は誰がきてくれるのかと聞いた。3人は全員来ると言った。少し仕事のことを心配してくれたが、問題ないと答えた。本当に問題はなかった。
親父が眠れそうだと言ったのと、時間が差し迫っていたので、病室を後にすることにした。やよい軒では、それぞれ食べたかったものを食べた。このまま全メニュー制覇しようなんて冗談を言っていた。

帰りの車の中では、妹とお袋が日中あったことを話してくれた。親父が「尿道カテーテルとの付き合い方」でググってくれと言い出して面白かったことや、ノーベル賞のアイデアを聞いたが、結局わからなかった話をしていた。
お袋が、今週中に一回大阪に帰って様々な業務処理をしてしまい、年内実家にいられるようにしようとした俺に気を使ってくれ、主治医にタイミング的に帰って大丈夫か聞いてくれたとの報告を受けた。来週を迎えられるかもわからないからやめたほうがいいと言われたらしい。さっきまで元気そうにしていた親父と主治医のアドバイスのギャップにものすごく悩んだ。とりあえず帰る計画は保留にした。そして、親父のお袋(俺の祖母)に電話をすることにした。逐一連絡はしていたのだが、親父が誰が誰かを認識できる間に読んでおこうと思い、連絡した。電話したらおばあちゃんは驚いていた。11日に見舞いにきていて、様子をみているだけに信じられない様子であった。おばあちゃんは、近くに住んでいる叔母に連絡すると言って電話を切った。20分後くらいにかけ直してきてくれて、明日行くと言ってくれた。少し安心した。

その日は筋トレと素振りをして、床に着いた。なかなか寝付けなかった。


11月17日

朝6時に目が覚めた。いつもなら布団の中で走るかサボるかの葛藤をするのであるが、今日は違った。
実家の固定電話の音が家に響いた。飛び起きた。お袋が子機で電話を受けた様子がわかったので、お袋のところにいった。
お袋は電話鎚でただひたすらうなずいているだけだった。何かあったと察した。
お袋から聞くには、病院からの電話で、呼吸が弱くなっているから、いつもより早くきて欲しいと言われたらしい。妹とお袋はどうせ1時間くらい準備にかかてしまうので、俺はすぐにランニングに行った。
いつものルーティーンを崩してしまうと、よくないことが起きるのではとか、しっかりと神社にお参りに行っておきたいとか、いろんな思考回路がぐちゃぐちゃしていた。ものすごい早いペースで走った。

家に戻ると、妹もお袋もあらかた準備が終わっていた。俺もシャワーを浴びて5分で準備した。全員の準備が終わるのとちょうど同じタイミングだった。
祖母と叔母にも連絡した。俺が走っている間に、再度病院から電話がきたらしい。すぐに家を出た。
普段病院に行くより、1時間くらい早く家を出たので、道路の混雑状況がいつもと違った。なかなか車が前に進まないので、少し焦った。

いつもよりかなり時間がかかって病院についた。お袋は病院前の降車場でおろして先に病室に行ってもらった。
俺も駐車場にすぐに車を停めて、妹と病室に向かった。
いつもはトイレやもろもろを済ませてから病室に行くのだが、今日は直接向かった。

病室につくと、親父はいつもと姿が違っていた。俺の知らないチューブがついていて、目をつぶっていた。お袋がさっき息を吐いたといった。
そばにいてくれた看護師さんは、2時から3時くらいに痛がっていたが、喋れていたと教えてくれた。しかし、その面影は親父にはない。
ドラマでよく見る,心電図などを測定する機械にはつながれていないので、親父の心臓がどうなっているのかわからない。でも、少しも動かない親父を見て、色々察した。
看護師さんも、最後に少し反応してくれるのを待っている様子であった。しかし、俺は、お袋が最後の息を見れたのならそれでいいと思っていた。カッコ悪いところを子供に見せるような親父じゃないからだ。
声を振り絞って、看護師さんに、先生を呼んでいただいて構わないと言った。

しばらくすると、先生がきた。時間が無限に長く感じた。先生は、瞳孔や脈を確認した。
8時35分に親父の死亡が確認された。

その後のことはしばらく覚えていない。お袋はないていたし、妹も泣いていた。

少し時間をもらって、気持ちを落ち着かせたのち、親父の着替えや体を拭いてあげるなどの、死後の処置をしてあげた。
妹は、これも勉強と言って、管を抜いたりするのも手伝っていた。俺は、ある程度ケアをして、葬儀会社を選んで親父をどうやって葬儀まで預かるかを考えなければいけなくなった。
お袋に駅前に斎場があるところがいいと言ったので、それを条件に色々と探した。幸い、すぐにいいところが見つかったため、そこに搬送も頼んだ。
親父のケアも終わり、着替えもしてあげて、部屋を綺麗にした。親父は今にも起き上がってきそうなくらい綺麗で穏やかな顔だった。

程なくして、祖母と叔母が到着した。親父からすると、母と妹だ。祖母は、親父になんで私より先に逝っちまうんだと言っていた。夫にも息子にも先立たれた人の気持ちなんて、俺には理解できる範囲を超えるほど辛いのであろう。
祖母と叔母が対面できたのを確認して、親父の会社の方に電話した。会社の方は、驚いた様子で顔を出したいと言ってくれた。ありがたくその申し出を受け入れた。
その後、葬儀会社に電話し、親父の体を移動させてもらう時間を打ち合わせた。いつまでも病室にいることはできないし、親父を家に帰してあげたいと思っていた。
俺の実家は、俺が中学生に上がり、妹が小学生になるのに合わせて買っていた一戸建てだ。ローンは、三代疾病特約のため、払い終えたことになっていたらしい。
俺たちに負担を残さずに築き上げた城なのだから、戻りたいのは山々だろう。

会社の方の面会が一通り済み、少し時間が経ってから葬儀会社が迎えにきた。お袋と妹は、親父と一緒の車に乗るとのことだったので、俺と祖母と叔母は俺が運転する車で帰ることにした。
車中では、早すぎるだとか、生前はこうだったとか、当たり障りのない会話が続いた。昼ごはんはどうするのか聞かれたが、出前をとるつもりだと答えたら、葬儀会社と打ち合わせがあって時間がかかるから、コンビニで適当にパンやおにぎりを買って帰るのがいいだろうとアドバイスをもらった。
大人しくその指示に従い、必要なものを買って家に戻った。親父はいつもよく寝転がっていたリビングにいつもとは違う向きで横たわっていた。白い布が被せられ、線香が焚かれていた。

息吐く暇もなく、葬儀会社の方と打ち合わせが始まった。基本的には、日程の調整や人数の調整が主なのだが、流行り病のせいで精進落としをしないなど、判断することが多かった。
祖母がこだわる風習や、お袋の感覚をうまいこと取り入れ、話が進んでいった。話し合いは終始穏やかに進んでいった。

大体の大枠が決まったところで、親父の会社の方に連絡を入れた。親父はまだ現役であった上に、お客さんなどに対する配慮もしなくてはいけなかったため、早めに決定事項を連絡するほうがいいと思ったためだ。
会社の方は、受付の人員や、生花の順番など、手伝えるところは手伝ってくれると申し出てくださった。本当にありがたかった。

話がまとまった頃には、16時くらいだった。もう16時かという感覚と、まだ16時かという感覚だった。
そのうち、親父の地元の近くの親戚が家に来た。ものすごく仲が良かったらしく、俺もお年玉をもらっていたので、よく覚えている方だ。
親父の顔を見て、ものすごく驚いていた。見るまで信じられなかったと言い、手を合わせていた。
母方の祖父母も家に来た。同じく親父に手を合わせて行った。通夜と葬式の日程を教えた。
父の地元の親戚が帰るタイミングで、祖母と叔母は一緒に帰っていった。祖母は親父の体が葬儀会社に預ける日にまた来ると言った。
母方の祖父母は、お袋を頼むと言って帰っていった。親戚関係がとてもよくて安心した。

夜ご飯は昼ごはんの残りを軽く食べ、いろんなところに連絡した。なかなか気が進まなかったが、親父が残したものの整理を進めた。
筋トレをいつも通りして、風呂に入った。風呂から出たらやることは決めていた。
冷蔵庫に缶チューハイが2本入っていたので、一本は親父に、もう一本は自分に空けた。
親父が、今まで我慢していつでも運転できるように待機してくれててありがとうと言ってくれている気がした。
俺は、親父にまた向こうで飲もうなと声をかけた。

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