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Debut 25th anniversary interview❺きつかった時期

Interview&Text by Yurie Kimura

❺〜きつかった時期〜

――今、デビューした頃の自分に言ってあげたい言葉はありますか。

 もっと力を抜いていいんだよ、とかかな(笑)。力が抜けたら売れるかもしれないよ、みたいな。

――デビューの時の煽りはすごかったですよね。その数年前に亡くなった尾崎豊さんの名前が引き合いに出されていたし、デビュー曲『彼女』のバックメンバーもラス・カンケルとかディーン・パークスとかアメリカの大御所ミュージシャン揃いでした。

 そうでしたね〜。自分でも「俺はすごい!」って自信満々だったけど、そっちじゃないんだよな〜ってずっと思ってました。
でもそれがうまく言葉にならないままどんどん周りが盛り上がって、いろんなことが決まり・・。
だからうまくバランスは保ててなかった。明らかにキャパオーバーしているのは自分でもわかっていたけど、俺自身、ギブアップしたくない気持ちも強かったし、若くて健康だったから耐えられたんですよね。バタンって倒れられたら、ああって気づけたと思うんですけど・・。
あれだけ期待されてデビューしたわけだから、当時支えてくれていたスタッフにひとつくらいいい景色を見せたかったな、と今になって思います。その時はそんなことは思えないくらい切羽詰まってましたけどね。本当にきつかった。

――でも私、あの時に売れなくてよかったと思います。売れていたらすごくイヤなヤツになってたと思うから。

 ハハハハハ(笑)。まあよかったんでしょうね。あのまま売れていたら間違いなくイヤなヤツになっていただろうし、当時よく話していた“花火になりたい”を地で行けるわけだから、ドーンと打ち上がって“やった〜”って言って、あとは散っていたと思います。生きてなかったかもしれないし、生きていても音楽はやってないでしょうね。

――大変な時期もあったと思いますが、25年間続けてこられたのは本当にすごいですよ。最終的に音楽から離れていく人も多いですからね。

 デビュー10周年から20周年くらいまでは、意外と意地になってやっていたところもありましたよ。一番ヤバかったのは、長く付き合っていた彼女と別れた30代半ばですね。あの時は生活者としての感覚を捨てて構わない、むしろ捨ててしまいたいくらいに思っていたかもしれない。
旅を回ってライブをする“ウタタビ”を始めていたから、どうせ旅ばっかりだしと思って、引っ越したひとりの部屋には布団も置かず畳の上で寝ていたし、東日本大震災の後は福島の被災地でガイガーカウンターがピーピーいうところの景色ばかり求めて行ってました。現地のお客さんは「ライブを見て元気になった」と言ってくれて救われたけど、俺の中では終末感が強かったしすごく刹那的になっていたから、ただただパワーを無駄遣いしてた気がします。
旅から帰ってくるとひとりの部屋でぼーっとして、あとはお酒を飲んで・・。どうせそのうちバタリと逝くんだろうと思って、体のことなんて全然考えてなかったんですよ。

(❻につづきます)

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