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「○○倒せ」論との付き合い方〜M.ウェーバーの社会的行為論から考える〜

「○○倒せ」論の是非ついて、半年に1回くらいのペースで自分のTL上で盛り上がります。
まあ概ね自分の属するコミュニティだと賛成派が多く、反対するコミュニティ外の人のツイートを上げ諂う感じの議論(?)が行われるわけですが、まぁ互いに主張することは、特に問題はありません。
結論も方向性もない議論に終始することになるのですが、その構造について社会学的に整理し、それを踏まえた上でどう身を振ればいいか論じてみたくなったので、noteにこの記事を投稿します。

本講の結論としてはざっくり以下の通りです。
・賛成派と反対派が主張を行う根拠が異なるため、両者は絶対に分かち合えない。
・論争の終着点は「○○倒せが『野球界』の発展・継続」に対し、具体には「球団の収入」に対し、どのように寄与しているか明らかにしないといけない。
・基本的にそれは明らかに出来ない。
・論争に巻き込まれたらプロレスを楽しもう!

本講の議論は「○○倒せ」の是非だけではなく、定期的に議論される外野における「立ち応援」の是非や「内野観戦における所作」「鳴り物応援」の是非等に関しても応用は可能です。
以下の論法で議論を考えることができます。

M.ウェーバーの社会的行為4類型

最初に議論の根本的な概念として、M.ウェーバーの社会的行為4類型を紹介しておきます。
ウェーバーは100年前の社会科学者で、おそらく近代という歴史の中で、最も偉大な社会科学者を挙げろと言われたら、確実にベスト5には入ると思います。

さて、人間は日々の生活の中で様々な行為を行っています。
食べる、寝る。球場では外野で声を出して応援する、内野で純粋に観戦を楽しむ。
いろんな行為を、様々な動機によって行っているわけです。

その行為をウェーバーは4つに分類しています。
①目的合理的行為…ある出来事に対し、ある目的を達成するために合理的に反応する行為
②価値合理的行為…ある出来事に対し、ある特定の価値を達成するために合理的に反応する行為
➂伝統的行為…ある出来事に対し、昔から続いてきた習慣で反応する行為
④感情的行為…ある出来事に対し、その場の感情で反応する行為

ウェーバーは社会がよりよくなるためには、人々の行動の傾向が①から④の順になるのが望ましいとし、せめて政府や大きな組織は「みんな①の目的合理的に動こうね」と言うわけです。
実際にみんなほとんど➂と④に基づいて行為を行っていることも認めています。
かなり端的に端折りましたが…。

「○○倒せ」反対派と賛成派を社会的行為で分類してみる

そもそもの倒せ論の発端は、伝統的に行われてきた倒せコールに対して反対派が声をあげたところにあります。
さて、これはどの社会的行為になるのでしょう。
概ね発端は感情的なものである。倒せコールが不快なので声をあげる訳です。
巨人ファンなら「紳士たれ」ゆえの伝統的な行為かもしれません。
そこに正当性を担保するために、「子どものために」「相手チームへのリスペクト」等の価値的合理性を付与して論を展開します。
これらは目的合理じゃ無いのか、という意見もあるでしょうが違います。
何が目的なのか、これは後ほど語ります。

さて、こうした反対派に対して賛成派は反論を行うわけです。
例えば「倒すと勝つ事は同義」「大学野球では普通にやっている」等。
社会的行為の分類によると、前者は価値的合理性、後者は伝統に基づく行動です。
もちろん、その前提として、自身の傾向への反対意見が出てきた事への感情的不快感もあるでしょう。

社会的行為の分類を使って仲直りさせてみよう

では、この両者を折衷する事は可能でしょうか。
結論として、不可能です。
まず、価値的合理性の主張については、互いにどのような主張をしようとも、互いに語る価値の尺度が異なるため、折衷はできません。
しかも、互いに相手に無い価値を語るために、どちらかの主張に基づく価値を出した時点で、トレードオフの関係に陥ります。

伝統に関しては、その隠れた部分にある価値的合理性または感情を明示しないと、なにも議論できる材料になりません。

最後に感情ですが、これはもうどうしようもないのです。
嫌なものは嫌、好きなものは好き。立ち入る余地すらありません。

仲直りできませんでしたー。

野球ファンの真の目的とは

今までの議論は価値的合理性までに限定され、目的合理性まで踏み込んで来ませんでした。

では。野球ファンの目的はなんでしょう?

応援しているチームが勝つことでしょうか?
負けたら目的は達成できない訳では無いですよね。
勝つ事は目的ではなく目標です。

そこにいると楽しいからでしょうか?
エキサイトな試合を見てワクワクするからでしょうか?
このあたりは実は核心に近いのです。

「野球を観戦できること」
これが最大のそして共通する目的です。
付随する条件を足して「応援するチームがあり、野球を観戦できること」としてもいいかもしれません。
今回は議論を分かりやすくするために後者を採用しましょう。

倒せ論の反対派も賛成派も無関心派も共通して持つ目的です。

「応援するチームがあり、野球を観戦できること」を達成するために、倒せ論は必要なのか不要なのか、次に検討していきます。

議論すべき共通の価値とは

では「応援するチームがあり、野球を観戦できること」のための条件を考えていきましょう。
根本として、球場がある事(またはチームが借りれる事)、そして自分のチームと相手チームがある事(選手がいる事)が条件です。

では、それを達成するための共通の価値は何か。

簡単ですね。

金だよ。金。

お金が無ければ、チームは潰れます。
04年の球界再編問題も、近鉄球団にお金があれば起こらなかった話です。
かたや、独立リーグに目をやると、お金が無くて試合会場の確保すらままならないケースもあるのです。

「〇〇倒せ」論の終着点

ファンの目的は「チームが存続し試合が開催されること」で、それを実現する価値は「お金」であると示しました。
これと、倒せ論を合わせるとどうなるか…

ずばり「「倒せコール」は球団経営にどのような影響を与えるか」という事が、明らかになればいいのです。

しかし、それは難しいお話です。
倒せコールの存在がどれほど人の行動に影響を与えるか仔細に調査しないといけないですからね。
反対派といっても、反対だからといってスパッと球場に行かなくなるわけではないです。
傾向として、応援にネガティブになれば、本来10回行っていたのが9回になるかもしれません。
かたや、倒せコールが嫌で外野から内野に行くことで、逆に球団の収益に寄与するかもしれません。

賛成派に関しても、倒せコールが無くなることで、張り合いが無くなり、球場に来なくなるかもしれません。

だから、倒せ論に答えを出す事はかなりの手間がかかるのです。

球音の日から考える応援論

しかし、この論法で確実に答えの出せる件はあります。
それは「鳴り物応援」の賛成と反対です。
これも、倒せ論と同様のやり取りがあります。

ただ、これに関しては既に検証済みなのです。

2017年5月にオリックスが「球音を楽しむ日」と銘打ち鳴り物応援を行わない試合を開催したのですが、特に観客動員に影響を及ぼさなかったのです。
周辺の平日と変わらない動員でした。
多くの人がそれを渇望していたわけではないという事です。
むしろ、イベントと銘打ち物珍しさから来た人は、次第に応援歌が無い事に飽きて来場回数が減るので、鳴り物無しを続けることで、経営的にはマイナスにもなりうります。

故に伝統的に続けられている鳴り物応援は、経営的にも正当性を得るわけです。

結論〜結論の出ない議論を楽しむ〜

冒頭でも述べたように、この記事はファンや応援のあり方論について、「〇〇倒せコール」を例示し、その議論を上から目線で論じたものです。

往々にして、こうした賛否両論の議論は、個人の感情を発端とし、感情に正当性を持たせるために、両論とも伝統や価値を持ち出して議論するのですが、それぞれは共通の価値尺度で比較ができないので、泥の投げあいになります。

唯一、比較可能でファンの目的と合致する尺度は「球団が存続・発展するために必要なお金」です。
ただ、全てのケースでそれが検討可能か、と言われると難しいです。

なので、Twitterでなんぞこうした論にぶち当たって、ムカつく!言い負かしたい!と思ったら、唯一、検証可能な尺度である「お金」を使って、根拠ベースで議論をふっかけてください。
もし、それが見つからない時は、リプを飛ばしてはいけません。
泥の投げ合いになるからです。
自分のアカウントで「倒せコール反対論ムカつく!」と呟くのは構わないと思います。
仲間内で「アイツらムカつくよね!」と言い合えば良いと思います。
仲間との結束や、いち野球ファンとしてのアイデンティティも強くなります。
反対派に見つからなければ、平穏に終わるのです。
見つかって議論をふっかけられたら「これは終わりの無い議論だ」と割り切り、(向こうは本気かもしれませんが、)こっちはプロレスを楽しみましょう!

それでは良い野球観戦ライフを!





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