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孫の世話をしたくない

友達からLINEが届いた。
初孫ちゃん、産まれました!


なかなか子宝に恵まれず辛い不妊治療を乗り越えて懐妊したことを聞いて彼女と共に喜びあったわたし。
産み月になるとなかなか産気づかないとやきもきしたLINEを寄越してきた。
そしてついに生まれたよ!との報告を受けて、わたしは万歳をした。
赤ん坊の誕生は赤の他人であるわたしにさえしあわせと喜びを与えてくれる。
そうか、ついにおばあちゃんになったんだね。

彼女は一足先に孫を抱く立場になったんだと思うと神々しくさえある。
わたしにも果たしてそんな日がくるのだろうか。
小さな奇跡を胸に抱く時がやってくるのだろうか。


もう25年ほど前になるだろうか。
たまたま郵便局で用事を済ませようと待っていた時のこと。
そこには50代後半くらいの女性がふたり。
そして2歳くらいの男の子とベビーカーに赤ちゃんを乗せている若い母親がいた。


やがて赤ちゃんがむずかり出してお母さんは抱き抱えてあやし始めた。
するとそれを見た上の男の子がぼくも抱っこと言い出した。よくあることだ。
お母さんは丸々とした赤ちゃんをよいしょと抱え直し、上の子に抱っこできないよと諭す。
すると男の子はますます抱っこ抱っこと連呼し始めた。
そのうち地団駄を踏み、声をかぎりに泣き出した。
お母さんは一生懸命、子供に言い聞かせるが届かない。


どうしようか。
お母さんは大変そうだ。
ちょっとお兄ちゃんの相手をしてあげたら泣き止むかもしれない。
ただ家の購入の為に多額の現金を下ろす為に気を張っていたわたしは声をかけるのを躊躇っていた。
そばにいたご婦人達は黙ってその様子を見ていたが、やがて用事を済ませて出て行く若い母親の背中を見送りながら、ひとりが首を振り振り言った。
あんな小さな子がいると大変よねえ。
するともう一人の女性も頷く。
ほんと大変だわ。
もう勘弁。
わたしは孫の世話なんてしたくないわ。
それを近くで聞いていたわたしは思わず眉が上がってしまった。
可愛い孫の世話をしたくないなんて、そんな血も涙もないおばあちゃんているのだろうか。


今わたしもその時のご婦人達の年齢に近くなって思う。
血の繋がった孫という存在は無条件に可愛い。
愛すべき存在だ。
しかし、わたしはまだ出逢ってはいないが、孫をぐるぐる巻きにしていつでもどこでも抱えて歩くようなばーちゃんにはならないだろうと思う。
ムツゴロウおじさんのようにはきっとならない。
たぶん『孫』とそう定義づけるだけで、きっと『ひとりの人間』として一歩距離を置いて眺めるようになる気がする。
ひとの成長を見るのはきっと楽しくて面白い。
ただ寝転んで泣いてるかミルクを飲んでるか、排泄をしてるだけの小さな存在が立って歩くまでの間に人間のすごい進化を見るだろう。


それにつけても育児は大変だ。
樹木希林さんが仰っていた。

人を頼まないでやるってことは大変ですよ。
それが本当の子育てなんですよ。
いちおう稼いでて人を雇わないでやるってことはね、へたへたになって帰ってもご飯作ってやるということがね。
これがなかったら、私、役者をやっててもしょうがないなと思って、がんばってンですけどね。
一切なりゆき〜樹木希林のことばより〜

人を雇ってもいい。
保育園に入れてもいい。
助けてくれる手はいくらでも持つべきだとわたしは思う。
全部が全部お母さんの肩に乗せてしまえばいいわけではない。
だって子供は未来を創るからだ。
社会で育て上げる義務がある。


かと言ってもう歳を取り、あっちが痛いこっちが痛い、不調を抱えるおばあちゃんおじいちゃんに丸投げするものでもない。
やっといろんなものを下ろして身軽になりつつあるところに、はいお願いねと一切合切頼むというのも違う気がするのだ。
あの時のご婦人達はきっとそんなことを見知っていたか、経験されたのかもしれない。
ようやくそれが朧げながら理解できる年齢になった。


孫は来てよし、帰ってよし。
おばあちゃんにもおじいちゃんにもそれぞれやりたいことがある。
今まで出来なかったことにこれからは打ち込んでいきたいとささやかに願うのだ。
孫とも対等に一人の人間として向かい合っていきたいのだ。
世話を焼くだけの要員として勘定されるのではなく。


叱るのは親の役目。
泣いた子供を慰め諭すのがばーちゃんになったわたしの役目かな。
そんなふうに思っている。
ばーちゃんではなくグランマと呼ばせたい。
そんな密かな野望も持っている。


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