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夏目漱石『三四郎』における、第三章の女の轢死のくだり。あの流れにモヤモヤを感じるのは筆者だけか?

夏目漱石の前期三部作の第一作の『三四郎』。夏目作品の中でも特に好きな作品だ。登場人物の男女の発言がみな生き生きしていて、読んでいてとても心持ち(漱石の十八番のワード)がよい。読んでると、「これは本当に明治時代の話なのか。会話なのか。いまでもフツーに通じるじゃないか」と思わされる箇所がいくつもあり、驚かされる。

自分は、よし子に惹かれる。美禰子にはあまり惹かれない。よし子のおっとりした言動の数々を見ると、自分の中で綾瀬はるかが重なる。仮に、綾瀬はるかが『三四郎』に出演するとしたら、女のメイン格である美禰子をやりそうだが。

それはそうと。『三四郎』を読んで、長年気になっている箇所がある。それは、第三章の、あの有名な「三四郎が女性の轢死体を目の当たりにする」流れにおいて。

ちなみに過去の知識人らの考察を見ると、この轢死が意味するものは、「美禰子の行く末を暗示したものじゃないか」という見解がいくつも目につく。そうかもしれないし、まったく違う感じもする。

自分が気になったのは、そこじゃない。以下、抜粋(夜、三四郎は先輩の野々宮君の部屋に一人でいる場面)。

『宵の口ではあるが、場所が場所だけにしんとしている。庭の先で虫の音がする。ひとりですわっていると、さみしい秋の初めである。その時遠い所でだれか、
「ああああ、もう少しの間だ」

 と言う声がした。方角は家の裏手のようにも思えるが、遠いのでしっかりとはわからなかった。また方角を聞き分ける暇もないうちに済んでしまった。けれども三四郎の耳には明らかにこの一句が、すべてに捨てられた
人の、すべてから返事を予期しない、真実の独白と聞こえた。三四郎は気味が悪くなった。ところへまた汽車が遠くから響いて来た。』

周知のように、この後、外の線路のあたりがざわつき始め、三四郎は気になって見に行く。そこで女の轢死体を目の当たりにする。

自分が気になるのは、「ああああ、もう少しの間だ」と言ったのは誰か? ということ。女の死体があるんだから、その女に決まってるだろと言われるかもしれないが、上の文章には女の声とは書かれていない。あくまで、「だれか」だ。

小説は直後、こんな流れになる。

『三四郎の目の前には、ありありとさっきの女の顔が見える。その顔と「ああああ……」と言った力のない声と、その二つの奥に潜んでおるべきはずの無残な運命とを、継ぎ合わして考えてみると、人生という丈夫そうな命の根が、知らぬまに、ゆるんで、いつでも暗闇へ浮き出してゆきそうに思われる。三四郎は欲も得もいらないほどこわかった。ただごうという一瞬間である。そのまえまではたしかに生きていたに違いない。』

この文章を見ると、その顔と「ああああ……」と言った力のない声は、同一(その女)に受け取れる。そういう感もある。ただ、読みようによっては、人間は(最低)2人いたんじゃないか? とも取れまいか。
「その二つの奥に潜んでおるべきはずの無残な運命」という書き方が実に、頗る(漱石の十八番のワード)曖昧だ。

その後、文章は三四郎の妄想により以下のような感じで繋がっていく。

『――轢死を企てた女は、野々宮に関係のある女で、野々宮はそれと知って家へ帰って来ない。ただ三四郎を安心させるために電報だけ掛けた。妹無事とあるのは偽りで、今夜轢死のあった時刻に妹も死んでしまった。そうしてその妹はすなわち三四郎が池の端で会った女である。……』

「轢死を企てた女」とは、死体の女でよいのか。そう決めつけていいのか。三四郎は、声を聞いただけで轢かれる瞬間を見たわけではない。しかも、不慣れな部屋にて、声は近くではなく遠くから聞こえた。なんともモヤモヤする流れ、文章というほかない。

加えて言うなら、仮に2人いた場合、その組み合わせは女と女とは限らない。「ああああ……」といった力ない声は、別にヤワな男でもいいだろう。くだんの暗示論に則れば、男女のほうがしっくり来るんじゃないか。

推理小説、もしくは推理という行為自体に関心のある人間なら、容易に素直には(自殺とは)受け取ることのできない書き方。その後、警察による現場の調べ、検死などはどういう結果になったのか。気になったのは筆者だけだろうか。

翌日、よし子の病室に届いた、轢死を報じた新聞を読みたい。



 

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