見出し画像

手を抜くって、悪いことですか?

 どうも、夕凪望です。だんだんと冷え込んできましたね。いずれ体どころか、心の芯まで凍り付いてしまうような季節が来そうな気がします。皆様元気でお過ごしでしょうか。このNoteを書くのは早三回目で、かといって段々慣れてきたなどとはとても言えません。やっぱり、人に文章を読んでもらうというのは緊張するものですね。

 ということで、早速ですが本題に入っていこうと思います。今回は「手抜き」についてです。手抜き。手を抜く、と聞くと、真っ先にあまりよくないイメージが湧くんじゃないですかね。僕もそうです。小学生になったあたりから、掃除をさぼれば怒られる。中学生になって、部活動に入らなければ怒られる。高校生になって、自由時間を勉強に使わなければ怒られる。そんな経験がある人、結構多いんじゃないでしょうか。後になって思えば些細なことで怒られてたなあと思うんですが、これ、当時の自分にとってはアイデンティティに関わるような大切な問題だったはずなんです。小学生は先生に好かれるかどうかが人権に関わるし。中学生はそれに加えて友達の目も気になる。高校生は近所の人の目も。大学生は、卒業や就職試験のことが頭から離れないなんて人もたくさんいると思います。僕もそうです。とにかく、いろんな場所で、いろんな人によって、手を抜くことは「悪いこと」だとされている。やってはいけないとされている。そして、はたから見れば手を抜くことというのは大した問題にならないように思えるのですが、当事者にとってはどうしても、手を抜くなんてのはありえないことに思えてしまうこともあるんです。

 自分の話になります。よければ少しの間お付き合いください。どうして自分が手抜きを許せない性格になってしまったのか、そのせいでどのような苦労をしてきたか、の話です。

 規律を重視する人が身の回りに多かったせいか、自分でも気が付かないうちにかなりの完璧主義になっていました。完璧でなければいけない、そうでなければ認めてもらえない、という強迫観念さえありました。それでもなんとか耐え忍び、泣きながら勉強して滑り込んだあの高校には、自分なんかでは到底叶わないと思われる秀才や天才がごろごろいました。並大抵の努力では追いつけませんでした。勉強だけがアイデンティティだった僕は次第にじわじわと心を折られ、やがては努力する気すら起きなくなりました。そんな状態で惰性でも勉強できた理由は、意地以外の何物でもありませんでした。受験を迎えて2年前、そうしてどうしようもなく落ちぶれた僕を、いまの大学が拾い上げてくれました。「大学でこそいい成績を残してやろう。有名企業に入って自分の価値を証明しよう」なんて、目的地が実在するのかもわからないまま茨の道を進むことを決意して、一生懸命勉強しました。成績にはA以上を並べるよう努めました。本も一年で100冊近く読みました。できるだけたくさんのスキルを身に着けられるよう、勉強以外のことにも手を出しました(ちなみに、これは一ミリもうまくいきませんでした)。2年生のつい最近まで、やはり僕は、「完璧主義」という名の亡霊に憑かれていました。

 転機を迎えたのは、コロナ禍でオンライン授業が始まり、それに続いて英語ができる人物への対抗心から英検一級の勉強を始めたときでした。慣れないオンライン授業にただでさえひいひい言っていた僕は、英検の勉強を始め、完全に時間的・心理的余裕を失ってしまったんです。決めたことはやらなければ、という思いから、「絶対に試験に受からなければ」「大学の勉強も、手を抜けば奨学金の審査で落とされるかもしれない」というプレッシャーに耐えつつ、勉強しました。正直、毎日がサバイバルでした。そんな日々を経て、結局英検は二次試験で不合格になってしまいました。いろいろな思いが頭の中を駆け巡ります。「必死に食らいついてきた今までの日々は何だったのか」「どうしてこんなに頑張ってるのに報われないのか」。その時にふと、本当にふと、思いました。「いや、お前、頑張ってるからダメなんじゃん」。その考えは、驚くほど腑に落ちました。

 どういうことかというと、結局のところ、手抜きには「悪い手抜き」と「良い手抜き」があるんですよね。「悪い手抜き」というのは、自分のためにならない手抜きのこと。後々自分が明らかに困って、なんなら苦しんでしまう類。もちろん他人に迷惑をかけるのも悪い手抜きです。対して、「良い手抜き」というのは、今の自分が重圧で潰れて再起不能にならないよう、後に繋げるための手抜き。言い換えると、生き延びるための手抜きです。正直、僕は弱い。ストレス耐性がない。なのに、身の丈に合わないくらい完璧主義です。だから、手を抜けるところで抜くのは悪いことじゃない。むしろそれが「義務」です。そう思うことで、少しは楽になれたような気がします。完璧主義の人間は、「義務」だったらきちんとこなさないといけないのでね。これが僕の、少なくとも今のところの、答えです。誰に笑われようとも。こうして自分に手を抜く義務を与えるから、僕は「このまま生きていくことなんてできない」という不安から少しであっても解放され、「明日もなんとか生きていける」という希望を手にすることができる。未来は開けていると信じることができる。そこには自由がある、と思える。義務が自由を与えてくれるなんて不思議な話ですけどね。

 「そんなに頑張ってたら心が壊れちゃうよ」と、僕のことをよく理解してくれている大事な友達は言ってくれました。今思い出していて泣きそうです。時間差で効いてきます。心が壊れないように、死んでしまわないように。「サボるなよ」なんて心の声をかき消すように、「いや、お前は今サボらなきゃいけねえんだよ」なんて語り掛けてくれる大事な友達がいる。もう一人の自分もいる。先の見えない苦痛の果てにそんな現在を手に入れたこと、少しは誇らしく思っていいんじゃないか、なんて、今は思えます。


 長いお話にお付き合いいただき、ありがとうございました。そしていつも僕の記事を楽しみにしてくださっている方々、本当にありがとうございます。今のところ、次は「嫉妬」について書いていこうかなと思っています。これからも好き勝手書いていきますので、どうぞよろしく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?