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呼ばれることと呼ぶこと

僕には呼ばれたい名前があり、呼びたい名前がある。
しかし、それは誰でも同じかと言われるとそうでもない。

呼び方というのは、まあ色々あって、
敬称をつけたり、呼び捨てにしたりと、人に合わせて距離をはかり、丁度よいところ狙って呼んでいく。

敬称があれば少し距離は遠くなり、敬称を外せば距離は少し近くなる。

おひなさん

おひなくん

おひな

おひなさま 笑

(決して意図したんじゃない、たまたまこうなったんだ、許してほしい)

そもそも呼び捨てという言葉も面白い。
まるで、名前に敬称をつけるのが当たり前で、敬称がないことは一部を捨てたというニュアンスの言葉だと感じる。

人はいつ敬称を捨てるという決断をするのだろうか。

もし今、呼び捨てで呼び合う関係であるならば、どこかで捨てることを決意していなければ、呼び捨てることはできていないわけだ。

ものを捨てるというのは、決して簡単なことではない。と思う。
想い入れがあったり、それがあることによってバランスを取っていたりするので、なくなれば当然崩れ落ちる可能性もある。

そのはずだが、なんでか呼び捨ては成立していたりする。

自分が呼び捨てにしようと思う時、相手も同じように呼び捨てにしようと考えているのだろうか。

仮にお互いが捨てる決断をしているのなら、これまでとのバランスは変わらない。
どちらも持っていなければ、どちらも持っているのと同じである。

しかし、片方が距離を詰めようとして、片方が現状維持を求めれば、当然バランスは崩れてしまう。

片方呼び捨て、片方敬称の関係性はある意味いびつな感じである。
どちらか片方しか持っていないのだ。

一体何を持っているのだろう。
それは重りか、はたまた宝物か。

本当に不思議なもので、名前の呼び名は互いの心の距離を明確に現わしてくれている。

心が近づいていないのに名前だけ近づこうと思っても、なんだか違和感があるし、かといって心が近づいているはずなのに、名前だけがいつまでも遠くても違和感がある。

呼び名の変更はとても自然と起こっていくもので、大体が相手も自分も同じような距離感で同じような呼び方をしているように思う。

ここで、冒頭に戻るわけだが、

僕には呼ばれたい名前があり、呼びたい名前がある。
しかし、それは誰でも同じかと言われるとそうではない。

たしかに、距離が近づく前から、近い距離の呼び名で呼んで、結果仲良くなるということもありえるが。

感覚としては分かっているはず、これは身体に馴染んでいない呼び方だと。

口にするたびに何かこれは違う、本当はこっちなのではないかという気持ちになる。

こう考えてみると、
呼び捨てという言葉は、捨てる決意をしたわけではないのかもしれない。

「捨てた」のではなく、「剥がれ落ちた」がニュアンス的にはしっくりくる。

敬称をつけるのは違和感がある。
だから剝がれ落ちていく。

お互いの関係から、余分なものがそぎ落とされる。
そんなイメージなのかもしれない。

まあ、「呼び剥がれ落ち」は長すぎるから、「呼び捨て」でいいんだけどね。


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