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趣味だから続くみたいなところがある

何を選んだ場合でもそうだと思うが、

認めてもらおうとすると続かなくなるリスクがある。

誰かに認めてもらうということは、
一定の成果だとか何か形に見えるものを作らない限り、土俵に上がることさえできない。

かといって、
土俵に上がっても、それと同時に認めてもらえるわけではない。

認められる例として、「よくがんばったねー」というものはあるにはあるが、そんな易々と認めてもらえるとは限らない。

大人であればあるほど、尚更そうだろう。

作ったものに対して、当たり前のように無反応なことはあるし、悪評が付く場合だってある。

自分が欲しかった反応でないことなんて五万とあるわけだ。

もし認めてもらうことを軸として何かを形に残した時に、欲しかった反応がもらえなかったら、悪評だったらどうなるだろうか。

「失敗」という結果が残ることになる。

それをバネにさらに頑張ろうとできる人はすごい。
1回や2回の失敗、無反応でへこたれるなんてことはなく、そこからさらに先に進もうとする。

当たり前に言われてそうな話だが、へこたれないというのは難しい。

言い換えれば、「まだ進める」と信じ続けることになるだろうが、「失敗」という結果を突きつけられながら、なお次に進めると思える人の精神力は凄まじいものだ。

そんな人間になれずに、
精神を保つことができず、人に認めてもらうことを諦めてしまった場合、頑張っていたことを続けられるだろうか。

仮にそれが好きだからという理由で始めたのだとしても、やめないというのは簡単なことではない。

どこかでやめたくなる瞬間は来る。

一番の目的としていた、認めてもらうということを放棄しているからである。自分が今何のために続けているのか分からない状態になるだろう。

目的を放棄するということは、先に進むことを放棄しているようなものである。
こうなりたいもこうなったらいいなもないのだから、「今」という点だけしか見えなくなっているイメージだろうか。

その状態で一歩前に足を出すということができるか。

僕にはそれが出来ない。

目的を失ってしまった後に、何を目指して進むというのだろうか。
コツコツ続けていけば、何か良いことがあるさという精神でいればいいのか。

何か良いことってなんだろう。
後から振り返ればよかったなと思えるみたいなことだとした時に、それを糧に頑張れるのか。

きっと頑張れないだろうな。
たまたま辿り着けた場所に満足を感じられるような精神性を持っていないのだ。

じゃあどうするよという話だが、

「ああ、趣味だったらいいか」と思った。

人に認めてほしいとか、思わない。

人に見てもらうために作ることをしない。

ただ自分が見るためだけ、楽しむためだけにする。
全てを自己満足のためにする。

少し悪く聞こえるだろうが、案外簡単なことでもない。
自分の中で満足を発見するというのは、途方もない作業なのではないかと思う。

一時的だとしても人に認めてもらえた方が、自分の中で完結するより、満足の度合いは大きいように感じられる。(自分の中の満足を知らないだけかも)

ただ、人に認めてもらおうとすると、その相手によって好みが異なっていたり、テンションによって見え方が変わったり、とにかく左右されうる要因が多すぎる。

その上、その要因をこちらからコントロールすることも提示することも簡単にできることではない。

となると、そもそも自分の目的に、他人に委ねる部分を作ってしまう時点で、かなりしんどくなるリスクを孕んでいるのである。

「自分はこんなに頑張っているのに、誰々が評価してくれない」や「自分の出来はいいはずなのに、なぜか良い評価がもらえない」など自認した評価と他人からの評価にギャップが生まれる可能性があるのだ。

ひどい場合には逆恨みのような感情までもが湧いてきてしまうかもしれない。
誰が悪いというわけでもないはずなのに、「恨み」という感情が発生してしまうのは悲しいというか寂しいものだなと思う。

関係する人全員が不幸になるのだから、そうなることは防ぎたい。

話を少し元に戻すと、

委ねる部分が多ければ多いほど、自他の評価のギャップが生まれてしまうのだから、それを防ごうと思ったら、人に委ねる部分を減らしていくしかないのだろう。

委ねる部分を減らすとはどういうことか。

一言でまとめるなら、
「自己完結できる形に整備すること」である。

つまり、何かに満足するために、人を介す必要がない状態を作るというイメージだ。

例えば、「誰かと話すことが好きな人がいる」としよう。

彼はとにかく誰かに向かって自分の考え事を話したいのだ。
そして、話を聞いてもらうことによって、満足を得ている。

しかし、相手が聞いてくれる状態でない場合には不満が溜まっていってしまう。
お互いに話したがりという場合などがそんなイメージだろうか。

そうすると、自分が話したいのに、相手も話してくる。
もっと話を聞いてくれたらいいのにと、自分を棚に上げて考えてしまうこともあるだろう。

逆に相手がよく聞いてくれる人ならば、自分は話して満足することができ、今日は楽しかったなどと感じていることだろう。
その際に、相手が楽しんでいたかどうかは別問題だが。

彼にとって満足できるポイントは、ただ話を聞いてくれる人がいるかどうかである。

活発なコミュニケーションを取りたいとかそういうことではない。

当然、目の前に誰が現れたとしても、自分が満足したいがために相手に話を聞いてもらおうとするが、全員が全員聞いてくれる人ばかりであるはずがなく、100%満足できる状態を作れることはない。

聞いてもらうことに満足を得続ける限り、自分の中で満足を得るということはできない。
不安定なモノにすがり続けることになるだろう。

これが、人を介す必要のある満足である。

あまりにも不安定で曖昧すぎる。
下手すれば満足どころか不満にすらなってしまう可能性がある。

そんな状態を続けていたら、自分が不満だということだけで済むならまだしも、もしかすると周りにも不満が伝播していくリスクもある。

自分を自分の中だけで満足させられないというのは、自分にとっても周りにとっても危険なことであるだろう。

満足を人に求め、期待した結果が来ないことに不満をいだく。そうすると不満を抱かれた側としても、穏やかな気持ちではいられない。
誰もが不満を抱く空間というのは、誰かひとりの不満から始まるのかもしれない。

それはあまりにも不健全である。

だからこそ、人を介さずとも自分で満足できる状態を作ろうとしていくことが大切なのだと思う。

それを積み上げていくことができれば、誰かに何かを自慢する必要はなくなるし、いかに自分がすごいのだと見せる必要もなくなる。

誰かに対して過度に期待を抱くことも不満を抱いてしまうこともなく、自分で自分を満足させる。

そういった行為を「趣味」と呼ぶのではないかというのが、この記事の趣旨である。

それならば続けられる気がするのだ。
変に大きな期待も持たず、過小すぎる評価もしない。

見せるためではなく、自分のためにできること。

それがどんなに小さいことだとしても、
そんなモノの積み重ねが人を豊かにしてくれるのではないかと思う。

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