【お菓子になりたかった梅干】


何言ってるか意味が分からないと思う。例えが梅干しでふさわしいのかいまだに自分でも良くわからない。とりあえず話を進めます。

お芝居を10年以上やってて、社会人になったけどやっぱり捨てきれなくてをかれこれ2~3回繰り返した。捨てずに、何か自分を表現できる方法を模索し始めた。なんで芝居をしたいのか、エンターテイナーでありたいのかふと立ち止まって考えた時、やはり「人を楽しませたい」というのが自分の人生を送る上での根源にあった。

ある意味、今の仕事は自分にとってはすごい良いものだなと思える。
素人の企画だとかなんだといわれながらも、まぁ、それはその通りだけれども「人を楽しませたい」が根本あるからちゃんと満足せず改善するという心意気は捨てずに持っているつもりだ。自分がやりたいので、これから人を楽しませるプロを目指すしか方法がないのである。だから素人だって言われても、じゃあ、自分でやってみ?と思いケンカ腰で腹は立つけどそこは反論はできない。繰り返すけど、相手のおっしゃる通りだから。


ちょっと話を戻します。なぜ芝居がしたかったのかというと、
その昔は、ただただ、自分のことを見てほしいだけだった。
しかし、特に努力はしていなかった。
芝居に関わらず、生きていくうえでの努力の仕方が良くわからなかった。
なのに、頑張る人を妬んでしまうような、性格も顔も超絶不細工な人間だった。
今思い返しても、小中高そして大学時代、自分に友人がいたのが不思議でならない。いまだに縁があったり、交流してくれるなんて、とても心の広い友人に恵まれていたのだと本当に感謝しかない。これは過去を振り返ると必ずセットで思い出される。この話読んでくださっているお友達、本当にありがとうございます。ずっと好きでした。握手してください。


さて、本題
学生時代、芝居の世界に飛び込もうとしたとき、恩師から「キャンディーになりなさい」みたいなことを言われた。見栄えも、口当たりも甘くていいもの。これが求められているもの。多分この一言が無かったら恩師のことを恩師とは思わないままだったというくらい衝撃を受けた一言。本人がどういうつもりで言ったかわからないが、自分の見栄とか、虚勢とか、本音と建前が全然違うとか、全部見抜かれた気分になった。あーもう、おっしゃる通りですね!と。

ただ、それを認められるほど自分の器が大きくなかった。

やはり芝居や芸能の世界は華が大事。私に華はなかった。いつも自信も度胸もなかった。よく逃げてた。なので器も大きくならなかった。でも大きく見せたかった。客観的に自分をお菓子に例えるなら、梅干しだった。梅干しはお菓子なのだろうか。そもそも梅干しに失礼なのでは。煮干しか。煮干しならまだ許されるのだろうか。煮干しは猫にモテてしまうな。話が逸れた。

当時、ケーキとかチョコレートとかキャンディーとか甘くてかわいくてキラキラしてる友人がすごい羨ましかった。顔だけじゃなくて、性格も良い。愛敬があって、人として立派だなと思えるような子が周りにわんさかいた。
私も真似してみたが、とても卑屈だったので、梅干しが洋菓子の真似しても、周りにクスクス笑われているようにしか思えなかった。多分方向性を間違えていたのかもしれない。自分が梅干しなのを理解しててもまだまだ認めたくなかった。

だが、歳を重ねるにつれて、梅干し(または煮干し)は梅干し(または煮干し)のまま戦うしかないことに気づいた。自分の工夫次第でどうにでもなる。梅干し(煮干し)にも探せばメインを張れるポテンシャルがあるのだ。

真実に気づいて、その現状を受け入れてからがスタートだ。
33歳にもなって、あんなこともこんなこともできていないという恥ずかしさに死ぬほど心をめった刺しにされても、変われないし前に進めない自分を受け入れる方が許せない気がする。

人は変われないのか、いや、そんなことはない。
人は変えられないけど、人(自分自身)は絶対に変われる。
自分でそう思ったらその通りにしかならない。

素直さを忘れず、
死ぬまで何回でも変身し続ける人間でありたいなと思いました。
お菓子にも、ご飯のお供にも何者にでもなれるエンターテイナーになりたいです。

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