見出し画像

【ほぼ日妄言】『SSSS.GRIDMAN』考察《「キミの使命を思い出せ!」》

SSSS.GRIDMAN、くっっそ面白いですね!!!
らき☆すたから始まったアニオタ歴ですが、私的に史上一番興奮してます。

そんな訳でSSSS.GRIDMANの私的に面白いトコロを考察をします。
(現状の3話までのネタバレは殆どないと思いますが考慮してないです。)


①空気感の演出
②電光超人グリッドマンを今アニメにすること
③主人公性「思い出すべき使命」

ポイントをこの3つにまとめる。

①空気感の演出 
 SSSS.GRIDMANの日常描写は凄まじく「現代的」な空気を感じさせる。
 その原因の1つは「絵が動かない」ことだろう。キャラクターとそのキャラクターのいる背景を、引きで捉える絵が頻繁に描写される。
 リミテッドアニメーション的演出が、間延びした日常、断絶した途切れ途切れの日常の、「間」を絶妙に描写しているのだ。その「間」を、静寂や、高校の雑談や合唱、声優の抑揚の抑えられた演技が繋ぎぐ。そうして「現代的」日常の平和で取り留めもない、しかし何処か違和感のある世界観が描かれている。
 怪獣との戦闘シーンでは3DCGにより動きの激しい描写が見られる。これにより物語は緩急がつけられドラマティックに盛り上がり、そして日常はより「間」を強調されるのだ。

②電光超人グリッドマンを今アニメにすること
 原作が1995年の特撮ドラマであることは言うまでもない事だろう。自分は今Amazonで16話まで観た。
 端的に言えばインターネットを題材にした問題提起が、デジタルネイチャーと表されるほどにテクノロジーが一般化した現代、1995年当時よりもより有力であると考えられる。
 おそらく、実写でのリメイクではなくアニメでのリメイクというのも重要だろう。
 ①で触れたように、SSSS.GRIDMANは「現代的」空気が強調して演出されている。アニメーションであることで「間」を意図的に作り出すことに成功しているが、同じように実写で絵を止めてしまっては時間が停止することを表現してしまう。(勿論別に「間」を撮る手法もあるだろうが。)
 それよりも、インターネットの時代を描くためにはアニメーションの方が都合がいい可能性が高い。   
 インターネットは現代、1995年よりも日常に接続され、固定電話はなくなり誰もがスマホでワイヤレスに繋がっているのだ。それにVtuberやVRchatの代表するようなCG技術の発達により、日常を仮想空間で過ごす人間も少なからず存在している。仮想世界での労働すら可能だし、SNSを考えれば、誰もが仮想世界にアバターを持つ時代で、更に現実世界でも離れた空間同士を仮想的に接続することが可能になっている。最早、現実と仮想の境界は薄れ、共存しているのが現代なのだ。
 このデジタルなモノが日常に溢れデジタルなしに成立しえない、いわばデジタルネイチャー的な現代性。これを描写するのには特撮よりもアニメの方が向いている可能性があるのだ。
 『電光超人グリッドマン』では現実世界に怪獣は現れない。現実の並行世界「コンピューターワールド」でグリッドマンに変身し闘っていて、そこでのイベントが現実で電話がつながらなくなったり車が暴走したりという影響を与えていた。言ってしまえば『ロックマンエグゼ』の様なものだ。しかし先に述べたように現代はデジタルネイチャー的で、仮想世界は現実世界と入り混じり共存しており、実写で撮られた並行世界「コンピューターワールド」は寧ろ「現実そのもの」になってしまっている。
 1995年の「コンピューターワールド」はサイバーパンクな街並みにウルトラマン的なグリッドマンと怪獣が戦いを繰り広げる中に、特撮技術とCG技術を駆使し「コンピューターワールド」感を演出していた。しかし現代、最早「コンピューターワールド」は現実に並行する異世界ではなく、現実そのものとなった。つまり、当時と同じような、あるいは並行的な世界を現代技術でアップデートした「コンピューターワールド」演出は困難なのだ。
 あるとすれば『仮面ライダーエグゼイド』的な現実にCGが浸入した世界観である。しかし実写となると日常は普通にカメラを回してもグリッドマンの登場にCGを使わなくてけない。グリッドマンと怪獣が戦う街もCGが必要になる。すると日常とデジタルなモノが別の表現で撮られることになり、即ち乖離をみせてしまう。
 つまり、アクセスフラッシュの瞬間、物理的な身体がコンピューターに呑まれるという描写がアンリアルすぎることが問題だ。僕たちは身体を持ったままデジタルの融解した現実に接続している。身体はコンピューターに呑まれないのが現実だ。だからアクセスフラッシュしても「コンピューターワールド」に転移するのではなく自分たちの街に転移する。アクセスフラッシュする前とした後の世界は同一の世界でなくてはならない。だから日常と戦闘でCGによって特殊性が増してしまう実写特撮は都合が良くないのではないかと考える。
 これを真のデジタルネイチャーの体現としてCGリアリティを徹底しようとすれば可能性があるかもしれないが、おそらく莫大なコストがかかるだろう。
 つまり、アニメの方が世界観的にも表現意図的にも、コスパが良いのではないかと想像する。


③主人公性
 主人公を記憶喪失にすることで視聴者と同一化させるのは物語演出の常套手段だろう。記憶がないということは、主人公は自分自身を何者とも認識できない。せいぜい自身の外見と名前しか自分のアイデンティティを持たない。それ故に視聴者は殆ど抵抗なく、物語世界のアバターとして響祐太を自己と同一化できるのだ。
 まして主人公はクラスメイトから「まぁ悪いヤツではない」程度の認識で、赤い髪くらいしか特徴がないとされていた。赤い髪はアニメ・漫画で常套的な主人公であることのシンボルだと考えられる。
 「まぁ悪いヤツではない」が象徴するように、響祐太は人間的課題を抱えていない。何かしら問題があったとすれば、宝田六花との関係性くらいであるが、一応は「何もなかった」と片づけられる。つまりこの主人公は、気が弱いとか暴力的だとか視野が狭いだとか、主人公にありがちな人間的課題を物語開始時点では抱えていないのだ。
 この様な点から、主人公:響祐太は、主人公であること以外、殆ど何者でもない。
 視聴者は何物でもない主人公:響祐太を媒介し、SSSS.GRIDMANのオルタナティブな現代世界の住人として没入することができるのだ。
 
 そしてグリッドマンから「使命を思い出せ」と求められる。これは主人公がSSSS.GRIDMANの物語を通して果たすべきミッションであろう。
 即ち、主人公のミッションであるということは、同一化される視聴者のミッションである。
 その第一歩がグリッドマンに変身し怪獣と戦うことであった。次に街を守ること、そして人を守ることが、第3話までの主人公の課題となっている。未だ「使命」が何かは明らかになっていない。
 おそらく、怪獣そして新条アカネ、アレクシスとの闘争を越えて、描かれるはずだ。
 これは極めて私的見解だが、新条アカネはテロリストだ。アレクシスはISが象徴とする、ネットを媒介して現代に鬱憤を抱える人物にテロを促す巨悪だ。怪獣とはそのテロリズムの手段であり、我々の世界で言ってみればローテクな手製爆弾や化学薬品の様なものだ。故に、今回の怪獣は手製の模型をネット≒アレクシスを媒介して殺傷兵器とさせたモノとなっている。
 宇野常寛編集責任雑誌『PLANETS10』いわく。押井守の『パトレイバー2』の時代、テロはテレビの虚構を媒介し演出され、戦場は前線と後方に分断されるものであった。しかし現代は「テロの時代」とでも言うべきで、インターネットの接続によりテロはどこでも起こりうるし、つまりはどんな場所も潜在的戦場たりうる。
 
 僕は、テロの時代として象徴されるインターネット時代故の悲劇に対抗する僕らの「何か」こそが「使命」なのではないかと考えている。

 それはきっと、高度なシステムとか、技術とかではなくて、特撮ヒーロー的な精神の話だ。何者でもない視聴者の僕らの、在り方の話だろう。平和で断絶的な抑揚のない日常で忘れ去ってしまった、当たり前の話だろう。これは僕たちの物語だ。

 デジタルネイチャー的な現代で、視聴者たる我々が思い出すべき「使命」とは何か。1クールで如何なる物語を紡ぐのか、僕は楽しみで仕方がない!!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?