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13歳でやくざ4人に10分くらい怒鳴られた話

私は昔からどの職場にいても同僚や上司に「肝がすわっている」だの「何があっても冷静・落ち着いている」あるいは「世捨て人」と言われることが多い。
「世捨て人」は置いといて、自分でも自覚があり、履歴書に長所として書いていた。
例えばホテルでフロントの仕事をしてた時、年に3-4回遭遇する不条理な事で怒鳴ってくるお客様は怒鳴っても動じない私を見て余計に腹が立ち、上司を呼んで文句を言う。その姿がなんともおかしくて笑いをこらえていたら、「何を笑ってるんだ!!」と言われるくらいだった。怒鳴られても頭の中には入って来ず、怒鳴られている間その人は普段どんな日常を過ごしているのか、笑ったら良い人そうだ、、なんて妄想したりした。(一応書きますが、「不条理な事で怒鳴るお客様に対して」限定です。)
他の職場でも面倒くさそうな人の担当は全部私が担当で、私は何とも思わなかった。

小学5年生くらいに家に住み始めた赤の他人のおじさん

私が小学校5年生位だった頃、40歳くらいだったおじさんは私たち家族の家に住み始めた。私たち家族は父・母・祖母・姉・私。
何の血の繋がりもないおじさんは、父と母がパチンコ屋で知り合って仲良くしていたそうだ。家に住み始めたのは、やくざの組から抜けて(逃げて)住むところを探していたところ、うちにおいでと両親が言ったらしい。
最初は少しだけのつもりがだんだんと延長してそのまま居ついた。

パンチパーマに少し色の入った眼鏡、派手なセーターやテカテカのベルサーチっぽいシャツ、クロコダイルのとがった靴、誰がどう見ても「ザ・やくざ」な恰好だった。
口調もとても良いとは言えない恐い人だった。
そして狭い借家の中でテレビのあるリビングが彼の部屋になった。

自殺も考えた小学校高学年時代

もちろんそんな赤の他人(男)が一緒に住んでいる環境は嫌で嫌で仕方なく、その人にお金の面でもサポートしてもらっているのは明らかであり、「やくざの人に食べさせてもらっている」そんな状況がとてもとても嫌で他にも色々あり、登下校の途中にあったちょっとした崖から飛び降りようかと何度もその崖の上で立ち止まった。しかしそんな勇気もなく日々は過ぎていった。因みに一応書いておくと、虐待(性的・身体など)はなかった。

逃げたおじさんを追ってやくざが家に来た

おじさんと一緒に暮らし続け私が中学生になって少し経った頃、家のチャイムが鳴った。その時昼間で父と母とおじさんはリビングにいた。
母が私に
「お父さんお母さんはいないと言って。おじさんの事は知らないと言って、絶対に!」
と言い、私が玄関の扉を開けた。
目の前にはやくざが4人。姿恰好が「ザ・やくざ」、少し若かったと記憶している。今思えばダサい恰好だった(ごめんなさい)。あまりにも強烈な経験だったため未だにその場面を覚えている。
そのやくざが
「〇〇(おじさんの苗字)はそこにいるか?」
「そこにいるのは知っている、早く出せ、出てこい」
などなど私に言ってきた。
それに対し私は「知りません」としか答えなかった。

最初やくざは13歳の女子中学生相手なので少し落ち着いた口調だったが、「母に絶対に言うなと言われたため言いません!!!!!」という決意の顔をした女子中学生が延々と「知りません」と言っていたため、段々と腹が立ったのだろう、激しい口調で私を攻め立てはじめた。内容は覚えてないが、私の好きな芸人さん、吉本新喜劇の未知やすえさんのキレ芸の様だったのは覚えている。
おじさんのクロコダイルの靴が玄関に3足も堂々と鎮座していたため、そこを突かれたときは一瞬たじろんだが、最後まで偽やすえ姉さんのケンカ口調に耐え抜いた。
最終的に「知りません」しか言わない女子中学生に根負けしたやくざは帰っていった。
4人を乗せた車が走り去っていくのを確認して私は号泣した。漏らしてはなかったが震えが止まらなかった。父と母は申し訳なさそうにしていた。

その後

今思うと暴対法がまだ成立していないあの昭和のご時世、私の「知りません」防御にキレ散らかしたものの、玄関から1歩も入らず私にも手を上げなかった4人に尊敬はしないけどありがとうと言っておこう。
そしてその経験があって以降、対人に関してどんなに恐いことに遭遇しても動じない精神力を持たせたくれたことにも感謝してる。尊敬しないけど。

追記:調べてみたら現在おじさんがいた組は解散していた。

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