新潮45休刊、新潮社は校閲を放棄したのか?

目次
『トドメを刺したのは小川氏のヘタクソさ』
『LGBTも痴漢も脳の病気で犯罪とでも言いたいの……?』
『新潮には校閲という文化がないのか?』
『軽減税率問題でも感じた出版屋の情けなさ』

 新潮45の休刊が決まり、杉田水脈→小川榮太郎と続いた一連の炎上商法(?)はひとまずの区切りを迎えた。炎上商法どころか、炎上して大事な商品(雑誌)が焼失するという意味不明の結末ではあったが。

 何はともあれ新潮の全面降伏という丁度いい区切りがついたタイミングなので、改めて杉田・小川問題を振り返ってみよう。

『トドメを刺したのは小川氏のヘタクソさ』
 杉田議員の「LGBT支援の度が過ぎる、同性愛カップルは生産性がない」も相当に酷い言い草だが、両論併記としてこの意見を痛烈に批判する声が掲載されていたならば、「アホの子を晒し者にして問題提起するやり方なのかな」と拳を下げる人もいただろう。

 ところが、小川氏のヘタクソ過ぎる援護射撃がこの問題の展開を決定付けてしまった。

 まず第一に煽り方がヘタクソ過ぎる。杉田批判で埋め尽くされた中で杉田推しの意見を発せば、そりゃ目立つだろうし、カンフル剤による売り上げアップも見込めるかもしれない。
 しかし、その為に多数派を煽って極論を目立たせたいのであれば、「数の論理で一撃で屠られる」ような展開にしてはならない。もう少し賛同者が集まる要素を入れて、籠城戦が長引くように持って行かないと。そうすれば「杉田・小川の言い分にも一理あり」と、どこからか援軍のひとつもやって来たかもしれない。
 ところが、小川氏も新潮もそうした要素を入れられず、ただ単に城への寄せ手が増えただけだった。そしてそのまま援軍の影も形も見えぬまま、本丸の新潮が開城して勝敗が決する。こうなると、そもそも小川氏は何のために勝負を挑んだのか、誰にも目的が解らないままになってしまった。
 そうした全体的な戦略のヘタクソさに加えて「LGBTと痴漢を同一視する」という戦術面でのヘタクソさが致命傷になった。先ほど籠城戦に喩えたが、この勝負の決まり手は籠城側が火の始末を間違えて大火事を起こし、城の中が勝手に阿鼻叫喚の地獄絵図になったといったところだろう。歴史上でもたま~~にある、籠城側が攻城側が予想だにしない大失態をして自滅するというヤツだ。本当に小川氏は何がしたかったのか。

『LGBTも痴漢も脳の病気で犯罪とでも言いたいの……?』
 いまさら小川氏の喩えの何がマズイのか説明するまでもないと思うのだが、「LGBTが生き辛いなら痴漢症候群の男だって生き辛い」という導入部分から、「LGBTの権利を守るなら、(同じ脳の病気である)痴漢症候群の触る権利も守れ」という結論まで、全編通して最高にパンクである。ここまで触るものみな傷付ける文章は久々に見たなと、むしろ清々しいまでのバカさに感動してしまったほどだ。
 痴漢をやめられない人間を脳の病気だと言ってのけるまではまだヨシとして、それとLGBTを同一の物と扱い、どちらも脳の病気であると読ませてしまうのはいかがなものか。
 それ以前に、痴漢は脳の病気だろうと何だろうと犯罪行為・性暴力である。その行為には必ず被害者がいる。だから許す訳にはいかないのだ。
 それに対して、LGBTは犯罪だろうか。性的なマイノリティが生き辛そうにしているというだけで、どこかに被害者がいるのだろうか。どうしてこの2つを並べて「権利を守れ」などと言ってしまったのか。

『新潮には校閲という文化がないのか?』
 こうまで書いておいてなんだが、小川氏の主張はあまりに幼稚で、本音を言えば解説する必要性を感じないのだが、この騒動でひとつだけとても気になる点がある。それは「新潮には校閲がないのか?」という、出版業界の端っこに引っ掛かっている人間としての素朴な疑問だ。
 通常、本が流通に乗るまでには、最低でも「編集者によるチェック」と「社内の第三者的人間による校閲」という、2重の"自主審査"があるはずなのだ。私は有り難い事に何冊か著書を出させて頂いているが、毎度毎度予定量の文字数を書くのにかかる時間と、編集者チェックと校閲で突き返されて来た物への対処と、かかる時間がたいして変わらない。それほど苦労しない書き手もいるのだろうが、私の場合は校閲を通す際にとても手間がかかる。
 これが編集者のチェックだけならば、誤字を直す程度の細かい修正だけで済む。編集者とは予め何度も打ち合わせて本の内容を決めて、同じベクトルを向いたところで作業を始めているのだから、そこまで強いツッコミが入る事はほとんどない……はずだからだ。そもそも、ラフを切った段階で書く内容はほぼ決まっているのだから、何か問題があればそこで直し(というか軌道修正)が入る。
 それに対して校閲は違う。ヤツらは血も涙もない。なるべくその仕事に携わっていない社内の別部署の人間などが原稿を超客観的に読んで、マシンのように冷酷に疑問点をぶつけて来るのである。さらにはこちらが書いている事が正しいか細かい部分まで調べ上げ、ネチネチネチネチ不備な点を指摘して来やがる。何なんだよ校閲。ムカつくんだよ校閲。ちょっと気取った言い回しをしようとしたら「言葉の使い方を間違っています」とか言うんじゃねえよボケが!わざとやってんだよ!ユーモアだよ!察せよそれくらい!あとアイツら文字数の都合でどうにもならずビクビクしながら調整した結果ちょっと説明がチグハグになっちゃった部分とか間違いなく見付けるからな。1文字弄ったら1ページずれる局面とかあんじゃん!そこがそれなんだよ!目をつぶれや!好きに書かせろや!猟犬か。犬コロなのか校閲って。もしくはトリュフ見付けるブタかこのブタ野郎!オレだってLGBTは脳の病気だとか暴言吐いてそれがそのまま本屋に置かれる世界で生きてみたいよ!いいな新潮!同人サークルみたいに気楽だな!

 と、一度でも校閲の恐ろしさを味わった人間ならば、これくらいの罵詈雑言がいくらでも飛び出るほど憎しみを抱いているはずなのだが、新潮45の小川氏の文章など、校閲が入っているとは思えないような内容である。少なくとも、マトモに校閲が機能していれば「LGBTと痴漢」という比喩は絶対に許されず、そのまま売り物になる事は無かったはずなのだが。
 仮に校閲まで通ってコレだというならば、新潮は出版社としてかなりマズイ状況なのではなかろうか。何故ならば「新潮には文章を冷静に咀嚼できる人材も、言論人としての矜持を持つ者もいない」という証明に他ならないからである。

『軽減税率問題でも感じた出版屋の情けなさ』
 この問題については、杉田・小川両氏の言動などすでにどうでもよく、それ以上に「出版業界はマズイところまで沈没してないか?」という不安が膨れ上がってしまった。
 つい何か月か前にも出版物の軽減税率が大問題(※)となったが、その時には「はした金のために出版屋としての誇りを捨てるのか?」という強い憤りを感じた。今回の新潮の一件は、それと並ぶ出版業界への絶望感を加速させるに充分な内容だったように思う。

※軽減税率問題
消費税の増税に関し、新聞が軽減税率の対象になった事を受け、出版業界もそれに続けと大騒ぎをした一件。問題なのは、業界が自主的に有害図書の線引きを決め、健全図書にだけ軽減税率を適用して欲しいと "出版業界の方から国に泣きついた" 事にある。これに対して識者を中心として「出版業界は自ら検閲しようというのか」と強い反発の声が挙がった。

 出版社の校閲の厳しさは、プロとしての強みや説得力にも繋がっていた。校閲を通った本だからこそ、お金を出すに相応しいと納得して貰え、また安心して読んで貰え、万が一内容に対して批判を受けても「いやそれはこれこれこうである」と、堂々と反論できたのだ。
 ところが、新潮45のように校閲していたとは思えないものを世に出してしまうと、今回のような大批判を受けた場合に身を守る術がなく、何度やっても休刊して逃げるといった結末にしか至らないだろう。厳格な校閲というひと手間こそが、プロとしての出版屋の立場を守るものだったのだ。

 出版業界は日々貧しくなって行く一方なので、今後もこの手の「金欲しさに筋を曲げる輩」は後を絶たないだろう。今やペンの業界は「貧すれば鈍する」という言葉が具現化したような存在なのである。

皆様からの金銭サポートがあると、子育てに追われる哀れなオッサンの生活がいくらか楽になると思わせておいて、息子の玩具やお菓子や遊園地代で殆ど溶けます。