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循環のなかにいたい

写真とか動画からわかるのは、

視覚と聴覚だけで、

あとの3つ、嗅覚、触覚、味覚は

体験することが出来ない。

触覚と味覚は、

殆どがこちらから働きかけることが必要なのだけど、

嗅覚というのは大体が受け身で、

薫ってくるものをえらぶということが、

出来ない。

嗅覚を選ぶには、

環境、空気そのものを選ばないといけないのだ。


花の香りや森林の香りと称される香料が

実際の花や森林の香りとはかけ離れたものだと知るには、

花を近くにし、森林に入らないとならない。

匂いだけでない。

明らかに「何か」が違うのも、

そこにいかなくてはわからない。


過去に経験していても、

切り離されて生活していれば、

忘れるものなのだ。

人間は忘れる。

(切ないが、苦しみ多い中のそれは福音でもある。)


いわゆる中間山地と呼ばれる場所に行った。

平家の昔からある集落である。

茶摘みの手伝い、という名目だった。

茶摘みの手伝いなど、したことはなかった。

お茶は買うもので、

お茶を作るのは茶園のお仕事という世界で暮らしていたから。

茶園ではない。

個人のお宅のお茶畑だ。


初めての場所だったが、

車から降り立った瞬間、空気が違った。

湧き上がる土と植物の匂い。

小さな町中の自分の家の周りも、

畑や田んぼが都会に比べたら多い場所なのだけど、

空気のなかの生き物の密度の差が段違いだ。

もちろん生き物が見えるわけではない。

これは、その空気の中にいけばわかるし、

いかなくては言葉を尽くしてもわからないと思う。

幼いころや、十代のころ、

父がよく近郊の低山に連れていってくれた。

ひたすら父のあとをついてくだけのスタイルが多く

楽しさとかはよくわからなかったが、

山の中を歩く、というのに、おかげさまで抵抗はなくなった。

(埼玉県の子は、

平野部でも集団学習ではよく山に入らされるし、遠足もわりと歩かされていた。

今はどうなんだろう。)

あのときの空気だ。

そう、山の中は明らかに

空気が違うのだ。

山とはいえ、開けた里山の集落でも、

町の空気と全然違う。


汚れた空気は機械で清浄にすることで健康を守っている、と町中の施設はうたう。

消毒液の匂いが、私の身を縮ませる。

みんなの健康を守るためだと。



違う、

このありとあらゆる生き物の発する空気を吸っていれば、

病まない。

少なくとも、病む必要性が減る。


本能的にそう感じる。


身体の、感覚の穏やかさが違うのだ。

「かえってきた」

と身体が言う。

この目に見える生き物たちと同等の私の命、

呼吸のやりとりが、

懐かしい。

遺伝子というものが確かにあるなら、

この懐かしさは、

それなのだと思う。


昔には戻れないという。

昔には戻れなくても、

循環の中にいたい。


この空気を吸って、深呼吸すればわかる。

正気を取り戻せる。

この空気が当たり前ではない私のような町の人間なら、

尚更だろうか。






















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