見出し画像

死を部分体験する

1本の歯の神経が、

被せた銀歯の奥で死んで、腐ってしまっていた。

神経のない大きくえぐれた歯が歯茎に残骸のようにして立っている。

その神経のあった部分の歯茎にはもはや知覚すらない。

不思議だ。

両端の歯や歯茎に接触すれば、知覚がわかるけど、

歯医者さんが細い針のようなもので、

膿みを出す為に

歯根の穴を掃除しているときは、

まったく

私の感覚は虚無である。

自分の身体のかなり敏感な場所の中に針を入れられてるというのに、

いつ入って出たのかもわからない。

歯医者さんは私の口腔内の虚空をなにやら掻き回している。(ラップみたいになった)

そんな感じだ。

私の身体の中に、死が存在している。

ノロノロ運転の車に自分の自転車がぶつかって小5にして人生走馬灯をみたり、

子どもを産むときになぜか動脈が切れて1.5リットル出血したり、

自分の死を意識したことはなくはない、のだけど、

死んだことはなかった。

少なくとも今生では。


口の中に、死が存在している。

身体の感覚がなくなる。

物体としては存在しているのに。

痛みも苦しみも恐怖もない。

あるのは、もう喜怒哀楽を感じられない

生が終わってしまった

寂しさだ。

もちろん本体の私の身体はまだまだ生きてるし、

びんびんに喜怒哀楽を感じすぎて疲れるくらいだ。

どうしてこんな風に生まれ付いたのだろう。

自分の

世渡りにはあまり役に立たない敏感すぎる感受性に嫌気がさして、

半分くらいうまいこと感受性が死なないかな、

と思うことも昔からよくあった。

いざ歯の神経が1本死んでみると、

これが感受性の死、というやつか、

と体感できた。

もちろん全然嬉しくない。

感受性を殺したいと思うのは、

あまりにも孤独を感じるときで、

本当はありのままに

感じるままに

楽しく暮らしたい。

歯が死ぬような生き方は、もうしたくない。

孤独をかんじることがあっても、

もう

自分を噛み殺したりは、しない。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?