先祖をたどる旅の記録を再開する
昨年の6月にひとりで母のふるさとに旅をした。
3泊4日で自分の直感のおもむくままの行程を踏んだのだが、
感じたことが多すぎて、なかなか記事にできなかった。
①から⑩まで記事を書いたのだけど、
書いているうちにこの旅の理由のひとつであった母の病が悪化し、
母は数多の先祖の側の世界に旅立ってしまった。
1年前私が一人で旅立つときは半年後に母が死ぬとは思ってはいなかった。
でも理屈でない部分で時は今しかないとも感じていた。
リッチな稼ぎもなく、家に人手が有り余っているわけでもなかったが、
すべてのことを置いといて、
旅に出た自分を、後押ししてくれた夫を
褒めてあげたい。
よくやった。
母が死んだあとでは聞けなかった話もあったので、
あのタイミングしかなかったのだ。
母は人生で東京や埼玉で暮らした時間が圧倒的に長く、
もともと田舎のお嬢さん育ちなのもあり、
緑を愛しているが、町の便利さを肯定している人だった。
田舎道より、建物がならぶ道をドライブする方が楽しいと都心につっこんでいったり(恩賜上野公園まで車でいったりしていた。私は絶対したくない)
特に強くふるさとに帰りたいと口にするわけでも、
希望しているそぶりもなかったが、
地面から離れた建物には住みたがらず、
庭の手入れやプランターの花を愛していた。
母は生まれた家の庭を、ふるさとの風景の中で一番愛していたと亡くなる前に教えてくれた。
話しかけてくるようなにぎやかな大きな木々に囲まれた広い庭で、
花や小さな生き物の目線で、
頼りない実の親たちから与えられたアイデンティティの不安さを補っていただろう幼少期の母の心を思った。
死期が近くなって手足のほてりを訴え、
身体の自由がきかなくなった母の手のひらを冷やしたのは素焼きの猫のポット式加湿器で、
そこに折爪岳で汲んできた一番きれいな湧き水をいれていた。
水をかえるときは母の世話していた庭やプランターの土にかえした。
そんなことのために汲んできたわけではなかったが、
私の気休めにはなった。
折爪岳はふるさとの家からは離れているけれども、
広い意味での先祖の土地の古い山で、
埼玉で汲む水よりは母の魂に近い気がしたのだ。
母を彼岸に見送ったあと、私の心身はひどく繊細になった。
自分ではコントロールできない繊細さで、
喪中の本当の意味を知った。
それでも時の力は偉大で、母が死んだ事実以外の付随した傷は結構どうでもよくなってきた。
また、私の繊細さをまるごと受け入れてくれる人のおかげで
徐々に確実に回復してきたように思う。
折爪岳のことを書くところから、
1年前の記録を再開していこうと思う。
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