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連載24 第四集 エッセイ編 『お月さまー そこから海が見えるかー!』あきとまさきのおはなしのアルバム '90


「かけ橋」によせて   広沢里枝子

(これは、点字図書館「神奈川県ライトセンター」の点字の機関誌「かけ橋」に掲載されたものです)

皆さん、こんにちは!私は、長野県に住む三十二才の主婦です。網膜色素変性症のために、子供の頃から少しずつ視力が落ちて、今は、光と陰を感じる程度になりました。

 神奈川は、私にとってとても思い出深い土地です。考えてみれば不思議な縁なのですが、小学校六年の頃、私をかわいがってくれていた叔母が方位学を信じていて、「南へ移り住めば必ず目が治る」という話しを聞いてきてくれました。そして、当時住んでいた埼玉県の秩父郡から、まっすぐ線を下ろした所に小田原市があったのです。転居するだけで病気が治るなんて、普通ではありえないようなことですが、母も叔母も、私の目を治すためなら、万が一の可能性でも、試してやりたい気持ちだったのだと思います。父は、当時を振り返って「パパは、反対だった。だが、里枝子は、その頃から自分の意志を持っておったから」と言います。

 確かに一番、小田原へ行きたがったのは、私でした。両親には言いませんでしたが、私は、将来失明するかもしれないと聞いていましたから、失明するまでが自分の一生と密かに決めて、それまでの日々を悔いのないものにしたいと熱望していたのでした。

 こうして叔母は、銀行員の職を投げうって私をひきとり、小田原の民間会社に転職し、その会社の社長のお屋敷に、一間を借りました。叔母の仕事は、毎日遅くまでかかりましたし、帰ってからも女中のような立場でしたから、私への責任もあり、若い叔母にとっては、たいへんな苦労だったと思います。私も私で、学校では、ひどいいじめにあいましたが、小田原へくることは自分の意志で決めたことですから、弱音は吐けませんでした。

 その後、叔母の結婚を機に、私は箱根にあるカソリックの学園に転校し、寄宿舎生活を送りました。見上げて過ごした壮大な自然と、仲間たちの笑顔、泣き顔は、今も鮮やかに思い出します。ただ、私の視野はますます狭くなり、夜盲も進んで、雨の日はテスト用紙も見えないほどでしたので、内心では、みんなから遅れがちなことに悩み、将来への不安に苦しみました。私は一人の盲人も知りませんでしたから、失明後にどんな生き方があるのか、全くわかりませんでした。

 そんな私が、高校卒業近くなってから、初めてお会いした盲人の方が、箱根に住む福沢美和さん(作家。「ひとみ会」主宰)だったのです。福沢さんにお会いできたおかげで、見えなくても、工夫してできることはいくらでもあるし、支え合える関係も作れる。その人の生きる姿勢しだいなんだなあと、私にもやっとわかりました。

 その後、大学時代からは、様々な障害のある方々にお会いでき、それぞれの方から大きな勇気を頂きました。その体験と出会いは、悩んで遠回りをしたように見えた日々を含めて、私の自立へのベースになった気がします。

まさきくんの絵・へんなハチ

 現在、私は、信州の山のふところで、夫と舅たち、男の子がふたり、それに、盲導犬キュリーと、チャボ六羽も加わって、幸せに暮らしています。ここでも、たくさんの方に支えて頂きながら、七年目になりました。

 そして、今日は、次男、まさきの5才の誕生日です。おばあちゃんが炊いてくれた、ほかほかのお赤飯と、みんなで作ったお菓子を囲んで、賑やかにひとときを過ごしました。
 今は、家族みんなが眠り、静かな寝息と、涼やかな虫の音が聞こえています。傍らのキュリーだけが、時々目を覚ましては、こちらを気にしているようす。

 こんな私たちの暮らしですが、文章に置きかえて書いてしまうよりは、会話集「あきとまさきの おはなしのアルバム」をお読み頂いた方が、わかってもらえるかも知れません。親しいボランティアの方々が、この会話集のパソコン点訳版、三冊を作ってくださったので、近況報告を兼ねて、この手紙とともに送らせて頂きます。

 会話集の第一集「おかあさん、木が あかくなってきたよ」が、親友の手書きの文集として生まれたのは、四年ほど前でした。子供たちの言葉と暮らしをそのままスケッチしたような素朴なものですが、私たちにとっては、思い出も友情も、いっぱいつまった宝物のような作品です。この会話集が、私たち親子と、たくさんの得難い人々をつなぎ、また、再会させてくれました。

 それでは、今、制作中の第四集 お月さまー、そこから海がみえるかー!」から、昨年の秋の思い出をひとつ記します。
     
 

         親子障害物競争

あき(長男)「かあさん、あたま さげて!」
私 「えっ?」 と、言っている間に、もうネットをくぐったらしい。
あき 「はい。ここ ここ、マット マット」
私 「エイッ!」 と、一回転。パチパチっと、拍手を頂く。
あき 「えーと、バッチ バッチ…」
和子先生 「はい。先生が やって あげるわ」
あき 「かあさん、こんど てー つなぐんだヨ!」
私 「はいっ」
あき 「ヤッター!3とうだ!」
 ふたりで、お腹の底から笑った。

 この長男、あきも、今年は、小学生になりました。幼稚園に通う次男も、ちょうどいい相棒になり、私の膝を取り合っていた時代から、ふたり一緒に駆け出していく感じです。

 私は、子供たちのいない時間、初めのうちは、心配ばかりして過ごしていましたが、この頃は、様子を見ながら、少しずつボランティアや、地域の活動に参加しています。この四月からは、月に一回ずつ、SBC信越放送ラジオの「ラジオおはなしアルバム ー 里枝子の窓」というコーナーに出演して、おしゃべりをするようになりました。電話で色々な方とお話しをしたり、点字で朗読したり、初めてのことばかりですが、上司にも、先輩にも、この上なく恵まれているので、失敗も成功も皆、経験と思って、一回ごと全力でやっています。

 地域の集いで体験談をお話ししたり、点字をお教えすることを通して、地域のおかあさん方や子供たちと、ふれ合える機会も増えました。

 私などは、家事や育児を中心にしながらの活動ですし、たいしたことはできないのですが。他の方々も、あきらめそうになる自分を励ましたり、励ましてもらったりしながら頑張っておられることが、この頃私にもわかってきました。ですから、遠慮してしまうよりは、ほんのできる範囲でも、連れだって進んでいきたいと思っています。

 それに、私たち障害者が自分から出かけて行かなければ、一般の人も、私たちとふれあえる機会(特に、同じ立場でわかり合える機会)は、ほとんどありません。どこへ行っても、盲人に会うのは私が初めてという方が多いので、参加してよかったと思います。その一方で、これだけ障害者の社会参加が叫ばれていながら、「障害者と、その関係者のための特別な場所」と「一般社会」とが、あい変わらず隔てられたままの現実に気づかされます。だからといって、悲愴な決意で出て行く必要もないでしょうが、行きたい所があれば、ためらわずに出かけてみるとか、自分から声をかけてみるとか、そういう普通のことが、隔てられた心と社会に、具体的な橋をかけることになるのだろうと思うのです。

 最後に「街に出よう、キュリー」の歌詞を記します。これは私が、車椅子の音楽家、土屋竜一さんに出会って、初めて作詞をしたものです。この夏、奈良の「全国わたぼうし音楽祭」で、思いがけず「わたぼうし大賞」を頂きました。ひとりでは、決してできないことが、土屋さんのおかげでできたこと。また、私たちの素朴な思いに、初めて行った奈良で、たくさんの方が共感してくださったことは、出会いの大切さ、すばらしさを改めて噛みしめた嬉しいできごとでした。

 この思いを私を育ててくれた思い出深い地へ、感謝をこめて贈ります。どうか、皆さん、お元気で。ごきげんよう!

 

まさき君の絵・ヘルメットをかぶったキューちゃん

街に出よう、キュリー 作詞 広沢里枝子 作曲 土屋竜一

街に出よう、キュリー
そよ風のように
あの子がくれた タンポポの花
ハーネスに飾って

黙って通り過ぎる人
あなたは誰?
足音が聞こえたら 私から言える
こんにちは
ご機嫌いかが
一緒に行きましょう そこまで

私とあなたの生きる街
私とあなたのつくる街

街に出よう、キュリー
そよ風のように
緑の香り ポケットに歌
ハーネスもはずんで

遠くで見つめてる人
あなたは誰?
手のぬくみ感じたら 心から言える
ありがとう
会えてよかった
一緒に行きましょう ここから

私とあなたの生きる街
私とあなたのつくる街

 
                    制作 1991年9月

youtube版「街に出よう、キュリー」

「土屋竜一with広沢里枝子1991」
歌・藤巻敬子・土屋竜一/ 朗読・広沢里枝子


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