【2026字】このまま二人でどこかへ消えてしまおうかな

「このまま二人でどこかへ消えてしまおうかな」

俠が言った。

すこしだけ開けた窓から、蒸したアスファルトのにおいが夜風に乗って入って来た。

雨が降る、雨が降ると言って、ひとつも降らないで空気はしっとり黙っている。

「え。なんて?」
「こんな歌なかった?」
「歌?」
「このまま二人で、どこかへ、消えてしまおうかな」
「そんな歌あった?」

わたしは足の爪を切っていた。
三角すわりで、足の指にむかって身体をぐんと折り曲げると、脇の汗のにおいが甘酸っぱく香るのが気になって、爪の破片を受けていたティッシュを丸めて汗を拭った。

部屋のすみっこにダイソーで買ったプラスチックのゴミ箱が置いてある。ローマ字で、EVERYDAY HAPPYと書いてある。エブリデイハッピー。毎日幸せ。

「ジュリーアンドマリーが歌ってたような気がするんだけど」
「ふうん。いつごろ?」
「分かんない。小さいときにさ、たぶんMステで見た。それも過去のヒット曲ランキングみたいなやつで映ってたと思う。だからすごい過去」

ゴミ箱に放り投げたティッシュは、大きく外れて全然関係のないところに転がった。俠がそれを拾って、においを嗅いで、くすくす笑ってゴミ箱に捨てた。

「あったと思うんだよ。このまま二人で…」

このまま二人で、どこかへ消えてしまおうかな。

俠が、低い声で、ひとりごとみたいに口ずさんだ。知らないメロディだった。私はティッシュボックスからまた一枚抜き取って、フローリングに敷き、足の爪を切ることを再開した。ぱちんと切れた爪が、うすいティッシュの上にぱらぱら落ちていく。できそこないの三日月みたいなのが、いっぱい落ちた。

そんな歌あったっけ。

うつむいていた顔を上げると、窓ガラスの向こうに夜空が見える。たっぷりの雲で覆われていた。やはり雨が降りそうだ。

窓の外は蒸していた。
六月の、緑っぽい、水分をふくんだ柔らかな空気が、キャミソールでむき出しの腕にからみついてくる。

もうすぐ夏になる。夏になったら、竹の香りがたっぷりする茣蓙を買いたいなあ、と思った。

「ねえ。なかったとしてもさ、いい歌詞じゃない?」

俠が言う。フローリングにあぐらをかいて、つけていないテレビに向かって気持ちよさそうに目を閉じている。

「んー」

適当に聴こえないように、適当な返事をしたつもりが、けっこう適当な感じが出てしまった。ちらりと俠を見ると、こちらを見ていた。

今しがた寄越された、できたての視線だった。

俠は、うつくしい男だ。
ない音楽を、よく探している。

適当な返事をしたことは咎められなかった。

わたしは足の爪を切り終えて、丸めたティッシュをEVERYDAY HAPPYのゴミ箱めがけて放り投げる。今度はすっぽりと入った。

それを見て、俠はゆるりと口角を上げた。そしてあぐらのままずりずりとわたしに寄ってきて、大きな手で頭を引き寄せ、鼻先と鼻先をすんと触れさせた。

俠からはお風呂上がりのいい匂いがしたのでそれを言うと、わたしからは汗のにおいがすると言われた。つぎに唇を柔らかく食まれて、俠の唇は冷えていたのでそれを言うと、わたしのは火照っていると言われた。

「俠の言う歌、いつも無いね」

わたしはひんやりと冷えた向こうの下唇を、歯でかるく噛んでみた。俠の目はそれで嬉しそうに、三日月の形になった。ひとの目が微笑みをかたどる瞬間を、こんなに間近で見たのは初めてだった。微笑みは長く密集したまつ毛に飾られて、犯罪的に憂いを帯びていた。

今夜の月は三日月だったかしら、とわたしは思って、キスをやめて窓の外を見ようとしたけれど、頭を抱いた大好きな指が首の後ろにおりてきて優しく撫でるので、やめた。

「そうだね」と俠が言った。低い青色の声だった。

俠は、うつくしい男だ。
ない音楽を、よく探している。

このまま二人で、どこかへ、消えてしまおうかな。

わたしの身体はほんのりと熱く、生きていて、せっけんの匂いと湯冷めの冷たさを、俠から奪っていくことができる。俠はうつくしすぎて死んでいる、とときどき思う。

仰向けに倒されて、背中がフローリングについたとき、横向きになった視界に窓があった。窓の向こうに夜空があった。そこに三日月があるんじゃないかと思ったけど、あるのは灰色の雲だけだった。

わたしはいつものように、自分の体温が俠の体温になることを期待していた。俠はあくまでうれしげに、愛おしそうに、わたしのことを抱こうとしていた。

このまま二人で、どこかへ、消えてしまおうかな。

だけどまた、鼻先でメロディをたどっている。低い、掠れた鼻歌。ない歌。

無い歌。

わたしは、俠とふたりでどこかへ消える、そんなロマンチックな妄想を持たない。

「俠ちゃん」
「ん?」

わたしはね、俠がひとりでどこかへ消えてしまうんじゃないかなあって、そっちのほうが思うけどな。

「なに」
「いや、なんでも」

言わなかった。
肩甲骨が、フローリングに当たって冷える。夏の茣蓙を買おう、と思った。柔らかくて、竹のにおいで、あたたかい茣蓙を。

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