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この三冊。

(1)

2021年に読んだ本の中でインパクトの大きか
った三冊について書きます。これは2021年に
出版された本ということではなく、あくまで
もわたしが2021年に読んだ本ということです。

つまり、中世に書かれた古典でも、昭和五十
年(1975年)のベストセラー本でも、わたしが
2021年に読んだのならそれが対象……になり
ます。

一冊目は養老孟司さんと久石譲さんの対談本
『耳で考える』です。この新書は2008年の刊
行ですから、なんと14年まえですね。

何を今さら……と言われそうですが、古本屋で
この本を手に取って読み出したら(うわぁ)とい
う感じで、大当たりの興奮にレジへ直行しま
した。

こういうのは何年ぶりでしょうか。 実はあと
でご紹介する本も、かるーい気持ちで本屋に
入り立ち読みしていたら(あ、これは買わなき
ゃ!)となって一気読みした一冊です。そうい
う意味で2021年は運のいい一年だったと思い
ます。

で、上記の養老さんと久石さんの対談本です
が、最初はしばらくご挨拶的なやり取りが続
くのかと思ったら、読み出してすぐ「目の機
能と耳の機能は本来、無関係」という断定が
養老さんから飛び出して(ガーン!)となりま
した。

これ、目から入る情報と耳から入る情報とを
関係づけようとするのは人間だけだ……とい
う話なのです!

たとえばゾウは津波の到来を耳で関知したら、
もうそれだけで迷わず逃げ出す。しかし人間
は、どうしても(目でも確かめたい!)という
気になってしまう。

するとつまり、人間とゾウは、同じ場所にい
て同じ風に吹かれ同じ雨に打たれていても、
実質違う世界を生きている……ということに
なるでしょう。わたしたちは目でみるものと
耳で聞くものとは感覚的に統合されて当然、
と思っていますけれど、それは決して生命体
として当たり前のことではない!

ここでもうわたしは (うーん) と唸っていま
したが、対談ではさらに一段深いところへ論
議が進みます。

脳が発達して人間は生き物の頂点に立った、
みたいな言い方はよくされると思いますが、
そういうときわたしたちはごく無造作に
《身体組織が変化すれば行動が変わるのは
当然》
みたいに思って、そこで考えが止まってしま
うことがあります。けれど、ではなぜそうい
う風に脳(身体)が発達していくのかというこ
ともここで問われて当然でしょう。

もしも
「人間が地球上の生き物すべてを支配するの
が当然だから脳は大きくなった」
などと言い出したら、それは誇大感に浸って
考えるのを放棄することです。

これに関しても養老さんの見解は明解です。
人間の脳が大きくなった(連合野と呼ばれる
部位が生まれて感覚の統合が可能になる)の
は、本能のシステムでは対処できない事柄に
対処するためではないのか……とおっしゃる
のです。

例えとしてここでは昆虫の行動(ジガバチ)
との対比が出てきます。それは、ちょっと笑
えるけれど、同時に相当に考え込まされるハ
ナシであり、多分一度聞いたら忘れられない
例えです。

昆虫の本能は彼らを正確に目標へと導いてい
く驚くべき精巧なシステムですが、悲しいか
な、ゴリゴリの一本道で融通の利かないこと
が多い。

人間はこの点、だいぶ融通が利きます。本能
的な振る舞いに加え、状況判断を学んで(ま
た積み重ねて)行くことで路線変更ができます。
ですが、その代わり常にアタマの中が疑問と
共にあると言うか、いつも意味を求めてしま
うというか、いつも観念と格闘せざるを得な
いというか、生き物としてはどこか浮き上が
ったような感じで生きていくしかない。これ
は養老さんの言葉ではなくて、あくまでわた
しの解釈および感想ですが。

ともかくも、この対談を読んでいるとモノゴ
トの根っこ、あるいは起源の方へ興味がぐう
っと引き付けられるような強い刺激があって、
少し誇張して言うなら (居ても立ってもいら
れないような気持ち) になるのです。

もちろん刺激があったからと言って、わたし
がアレコレ考えて、結果もっともらしいアイ
デアに達するなんてことはまずないのですが、
負け惜しみではなく刺激されていること自体
がヨロコビの一種だと感じます。

答えが出ようが出まいが、そのテーマを自分
でもぜひとも考えてみたい……と思って興奮
することが、みなさんにもおありなのではな
いでしょうか?

と、ここまで養老さんの発言だけを追いかけ
てきましたが、お相手の久石さんも、養老さ
んのお話を上手に引き出しているだけでなく、
ご自身でもやはり非常に刺激的なことをおっ
しゃっています。

たとえばロンドンでロンドン・シンフォニー
・オーケストラを指揮して録音をしたときの
経験。日本のオーケストラだって十分に優秀
で、日本にいれば一緒に仕事をして不足はな
いけれど、ロンドンでは
「音の鳴った瞬間が圧倒的に違う」
という事実があるのだそうです。

これは決して単に演奏の力量の問題ではなく、
久石さんは
「音楽する目的が違うのではないか」
とおっしゃっています。また、一方にはこう
いうこともある。仮にロンドン・シンフォニ
ー・オーケストラのメンバーを日本に呼んで
演奏してもらっても、滞在一週間を超えると、
その音はロンドンで聴いたあの音ではなくな
ってしまう。

どんな音楽も、その土地の、その風土で鳴ら
すものなのだ……とか言ってコレをまとめれ
ば、一応もっともらしくはなりますが、本当
はそんなことで謎が解けたことにはまったく
ならない。

そこでまたわたしは、居ても立ってもいられ
なくなる、という訳です。

ほかにも、耳が目を理解するための概念が空
間で、目が耳を理解するための概念が時間な
のだという、これまたオドロくべき定義がス
ルッと養老さんから飛び出しますけれど、こ
れに関連しては久石さんが、よく言われる音
楽の3要素のうち、リズムは時間把握にかか
わり、ハーモニーは空間把握にかかわる。そ
うして旋律が時間と空間における記憶装置な
のではないか……とおっしゃっています。

まぁこれらの話題はわたしの好みで、ちょっ
と観念的な方面にかたよって取り上げてしま
いましたが、対談では他にも例えばんな話に
(へえ!)
と、感心することもしばしば。

ロンドンのパブなんかでは、その辺のオジサ
ンが、知らない誰かが口ずさんだメロディー
に三度でハーモニーを付けたりするのはちっ
とも珍しいことじゃないのだとか。
「おおっ!」
と感心してしまいます。(このハナシは、音楽
を構築していく姿勢が西洋と東洋で根本から
異なるというテーマに関わっています)

とにかくこの対談、若い頃にギターを弾いて
コードを押さえるのがやっとだったわたしで
も音楽について
(今度こそじっくり考えてみたい)
ような事柄でアタマがいっぱいになってしま
います。

もっと音楽の素養のある方が読めば、きっと
何倍もの刺激を受けるのではないでしょうか?

という訳で、この『耳で考える』を去年わたし
が読んで多いに刺激された感動本の一冊目とし
てオススメします。

(続く)

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