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『運が良いとか悪いとか』(11)

(11)

観念それ自体は身体性の打ち消し(身体性の
内に孕まれた異和)だが、そこにはもともと
観念内での物資性(非生命)の肯定が間接的
にふくまれている。

つまり観念は、非身体性の発揮という面では
個体の身体を超越する何ものか、たとえば鮮
やかな鳥の飛翔に感心、感動して表現・表出
を催すといった働きを示すが、同時に観念性
を根本から打ち消さない限りでは物資性の肯
定(身体性を否定する限りでの物質性の肯定)
でもある。

そこで人間意識は、原初的な表現・表出の元
(シンボル思考)と向き合うように外界の物
質性も認識する。観念世界自体にもともとそ
うした二方向性がある。鳥の鮮やかな飛翔に
何かしら神々しいものを感受して興奮する人
間意識は同時に、その鳥も場面が違うとあっ
さり他の生き物の餌食になる、そうした現象
を目撃してこの事実を認める。ただしそれは
事実という観念であり
「何かしら神々しいもの」
にはハッキリと打ち消しを浴びせても、そう
したシンボル思考を生み出すこと自体を決し
て否定しない。

こうしてシンボル思考と事実という観念とが
観念世界=人間意識の中では向かい合わせに
なりそれぞれがそれぞれの指向性において認
識を積み重ねていく。(註4)

先行するシンボルが何か特定の対象に神々し
いものを認めているのなら、実はその神々し
さを打ち消すような観念も潜在的には許容さ
れており、それが鮮やかなハンティングを見
せる鳥が呆気なく他の生き物の餌食になって
しまったというような場面を目撃したときに、
事実の観念として登場する。

それは人間の外界認識が客観化の契機を得た
と言ってもよいが、シンボルをより高度にす
るために外界が観察される契機が生まれたと
言っても同じことだ。前日には神々しさをま
とっていたあの鳥が今日は違う生き物の餌食
になっている。それを目撃した人間は観念世
界の新しい次元に立たされたかのように感じ
るだろう。

それまで観念は向こうからやってくる(ある
いは突如として噴出する、湧き出る)だけだ
ったのに、いまあの神々しさが頭の中で否定
されようとしているのを認めると
「自分でなんとかする」
あるいは
「自分でなんとかしなくてはいけない」
という観念操作の契機を得たことになる。

「単に向こうからやって来る観念」
において人間は対象と一体化しようとするば
かりだが
「事実という観念」
によって初めて一体化出来ない外界に対して
も関心(動物としてではなく観念的な関心)
が生じる。

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