『運が良いとか悪いとか』(10)
(10)
ディスコミュニケーションのうちにコミュニ
ケーションの可能性が繰り返し孕まれるもの
の、まだ言語と言えるほどのものが出来上が
っていない段階の人間集団では、シンボルは
おもちゃの花火のように儚いが、それでも絶
えず生まれてくるという意味では必然性のあ
る異和であり、この必然はシンボルの中味を
ぼんやりとだが関連させていくだろう。
すると、そうしたシンボルの中味への打ち消
しも必ずやって来る。異和である以上、身体
性から否定を浴びることもやはり必然だから
だ。ただしシンボルの中味に対する打ち消し
とは観念内での打ち消しであり、その個体の
身体性が直接に打ち消しに来るのではなく、
その個体の身体性も外界(非生命=物質界)
の内で異和として許容されているだけだとい
うことの反映としてやって来る。
観念世界のうちには直接的な身体性の取り込
みで異和の内に異和がべき乗しシンボルが高
度化、普遍化していく働きがひとつある。そ
こでは動物としての人間の身体性が直接に取
り込まれる。しかしこれと同時に言わば向き
が異なるもう一つの身体性の取り込み、間接
的な取り込みがある。
そこでは観念は観念でも、或るシンボルにと
って都合の悪い(打ち消し要素のある)観念
が、観念世界内部で外界の事実として措定さ
れる。ここから人間意識における事実として
の外界(それ自身が観念なのに、観念のシン
ボル性を実体の怪しいものと批難する根拠)
が始まる。
シンボル思考の異和としての跳躍を身体性が
直接に打ち消す働きは、実はその身体性も、
物質(非生命)の内に孕まれた異和であり絶
えず物質性からの否定を浴びているという矛
盾の本質を反映することになる。この側面が
観念の中味に関わって外界(生命世界より大
きな非生命世界)を取り込み、中味としては
シンボル思考を打ち消すが、観念世界そのも
のは許容する間接的な打ち消しとなる。
非生命(物質世界)が生命という異和を孕み、
生命現象の内に人間意識という異和(観念世
界)が孕まれるのなら、身体性(生命現象)
が人間意識を打ち消すとき、生命現象自体が
矛盾の体現であることが「打ち消しのなかに
『打ち消しの打ち消し』も含まれている」と
いう形で反映するだろう。それが上記の間接
的な打ち消しの根拠である。
直接的な打ち消しはシンボルを無化しようと
するが間接的な打ち消しはシンボルの個別の
中味を否定しつつシンボル性(観念性)その
ものは許容する。これによって外界と思考の
関係が始まる。シンボル思考が身体性を打ち
消す(身体性からカウンターとしての打ち消
しも浴びる)とき、この否定が間接的に物質
性(非生命)の肯定となって外界が入ってく
る。生命現象を異和(否定の対象)として孕
んでいる非生命の物質界が、あくまでも観念
世界の内で、同じ観念であるシンボル思考を
打ち消すものとして登場する。