見出し画像

聴くこと、語ることで救われる、私たちのこと。(映画 プリズン・サークルを観て)

観た、映画 「プリズン・サークル」(https://prison-circle.com)

なんだか、めちゃくちゃつかれた。。。つらつらと感想というか、映画を観て連鎖的に思ったことをば。長いです。

TC(Therapic Community / 回復共同体)という内省と対話を取り入れたプログラムを、日本で唯一取り入れている徳島県にある男性用の刑務所が舞台。TCを実際に受けている人たちや支援者、またTCを経験し出所した人たちを映したドキュメンタリー。

映画とかじゃない、日本の刑務所の中見るの初めてかも?アウシュヴィッツ、精神科病院、生活訓練所、入管の収容所などを思い浮かべる。あ、あと警察学校。何が共通していて、何が違う?規律と非自由と「教育」と。

当たり前だけれど、刑務所に入っている人は、(基本的には)罪を犯した人たち。

この待遇は、いい方なの?他のところはどんな感じなんだろ、と疑問。全然知らないや。(点呼やあのお辞儀って意味あるのかな・・・。服従?統制?懲罰? そして画面中がモザイクだらけなのも、不思議な感じ。モザイクの先の揺れる表情。

映画を見始めてすぐの感想は、あ、この世界知ってる。familiar な感じ。そして、え、これ令和になったこの時代に日本の刑務所でまだやってなかったの??え、ここが唯一なの?まじか、という軽い驚き。

初めてのフルタイムで仕事が、地域活動支援センターでの生活指導員。センターには、精神の病気や障害、知的障害を持つ人、なんらかの理由で学校や仕事に行けない行きたくない人達が通って来ていて、プログラムや相談を行っていた。認知行動療法やSTの研修に行かせてもらったり、それを基に企画で恐る恐るワークショップをやらせてもらっていた。

そして自分自身もカウンセリングを受けていた時のことや、思い返すと色んなワークショップや集まりに参加していて。インプロ、プレイバックシアター、ドラマセラピー、アートセラピー・臨床美術、観術、円座・・・etc.
それぞれの場で過ごした時間や、語った共有した言葉がみんな、私のいつもあまり外に出てこない部分を耕してくれた。

映画では実際のワークの様子が多く映されていて、見ながら、「あ、あの時のあれに似てる」なんて関連させながら観ていた。

その中で、観ながら思っていたこと。

まずは、言葉にするのが皆上手だなぁということ。この刑務所にいるのは、そもそもある程度選ばれた人、その中でも自分で決めてTCに参加しているのだけれど、それにしても、自分のことを振り返り、言語化することがみんな上手だと思った。時間をかけて、少しずつ慣れていったのかな。内容も、被害者になるロールプレイや、犯行当時を振り返るなど、内容的にも突っ込んでいて、カメラが回ってないところで、うわーってなる人だってきっといるよなぁ。

自分の物語。いや、そこまで大袈裟じゃなくても、自分の話をするって、「慣れ」が必要なんだよなって、この間妹と話していて、丁度思っていた。
自分の話をする相手がいて、その時間は無条件に私に関心が向けられていて、「正しい」以外のことを言える安心感があること。また関心といっても、自分をめぐる外側のことだけじゃなく、内側、どう感じているかへの関心。

さらに欲を言えば、もっと奥へ行ける質問をしてくれる人というか環境があること。安心感があれば、きっと自ずから話せる。けれど、それが育つまでは、まず聞いてくれること。うーん、求めすぎか。でもやっぱり完璧じゃなくても、「私はあなたの話を聞くためにここにいるよ。」ということを、少しの時間でもいいから定期的に示すこと。それが自分の物語を紡いでいくための安心感を育てていくんじゃないかな。

そして映画の中でもう1つすごいと思ったのが、他の人が恐れず切り込んでいく姿。
映っているものが全てのやり取りじゃない 取捨選択されたものだろうけれど、他の参加者が語りかける、問いかける言葉の、なんというか一種の気持ちよさというか、突き放すわけでもなく、全肯定するわけでもなく理解出来ないところは、理解出来ないっていったり時には笑ったり、そこは向き合わないと、とはっきりいったり。被害者になりきって問いただしたり、すごい。これ、支援者じゃできないんじゃないか。

信頼、以外の言葉で表したい、似た境遇である人同士だからこそ出来る向き合い方だなって思った。

対等であること。お互いに聴くし、話すしの関係性。1体1じゃなくて、グループの包容力に助けられることもたくさんあるんだよな。

もちろん支援する・される前提の関係性の中でだったら、遠慮はいらないけれど、そうじゃない関係性での支え合い。

ひたすら聞きっぱなしは、どうしてもしんどい。人の話をちゃんと聴けるキャパシティって絶対ある。人によって、コンディションによって違う。(私はこのキャパシティが非常に小さい。従来型の授業とか集中して受けられない。これはまた違うか)

この映画を見て、自分もTCを受けたいといっていた人が多かったと聞いたけれど、人の話を聞くと自分のことも話したくなるのは自然なことなんだろうな。
それをずっと抑え込むっていうのはきっと溜まる。

そうして、最後の方で「2つの椅子」というワークをしながら、「幸せに死にたい」「そんな風に思っちゃだめだ」という自分の中にある対立した気持ち同士が語り合うものがあったのだけれど。これって、加害者本人じゃなくて、周りの人も抱えている気持ちなんだろうなぁ。
一見して全く関係のない私も含めて。罪を犯した人に対して、どれだけ社会として反省して幸せになる権利を認めるのか。TC、え、全部の刑務所でやったらいいじゃん、って簡単に思ってしまうけれど、ロジはもちろんのこと、そういう「犯罪者である彼ら彼女にそんなことをする必要はない」という気持ちが、この社会は強いんだろうな。そもそも刑務所の役割は?出所した後に、私たちは彼ら彼女たちにどうなって欲しいのだろう。

最後の言葉は、「暴力の連鎖を止めたい全ての人へ」。劇中でも、参加者の人たちが話し合っていた 「暴力」の定義。

両親との関係の希薄さ、いじめ、虐待、依存。根っこは繋がっているのか。ここ思考止まってる。

また聴くに戻る。

前に1度ひたすら相手の話によりそって、15分聴く、そしてそれを書き起こして皆で振り返るというワークに参加して、いたく感動して、「聴く」は、人を救う と思っていたけれど、「語る」があっての「聴く」だったし、「聴く」があっての「語る」だったんだって、思い出した。
「語る」「聴く」のどちらもがあって人は救い救われるんだな。あれ、こう書くと当たり前のことに感じるぞ。。。でもやっとちゃんと腑に落ちた。

プリズン・サークルだけじゃなくて、(ほぼ)全ての人にサークルが必要なんだと思う。なにも表面上の問題がない人だったり、中くらいの悲しさにだって、等しく言葉にしてあげられるチャンスを。正解を言わなくたっていい、安心感のある場所を定期的に。

そして同時に自分自身が、どうしたって1番の聴き手であるんだなぁとも思う。
例えばこの映画、どうだった?How was it? って聞かれて、ここまで全部聞いてくれる人はどうしたって、いない。対話する相手がいてこそ到達出来る場所ももちろんあるけれど、自分の中にあるものをまるまるっと、聞いてくれる人は自分位さ。それをサポートしてくれる人はいるけれど。

久しぶりのつらつら。ちょっとすっきり。

ちょうど同じ日、映画を見る前にこちらのイベントに参加していて。
ストーリーテリング。自分の物語。ナラティブについてぐるぐる考える日でした。
商業的や、正しかったり面白くなくていい、きわめて個人的な物語を大事にしあえますように。

河合隼雄さんと小川洋子さんの「生きるとは、自分の物語をつくること」という対談集を思い出して、久しぶりに読み始めている。

舞台となった刑務所では、「Lifer ライファー」という同監督が撮った、この映画の元になった米国の刑務所でのTCの様子を追ったドキュメンタリーを最初に皆見て、TCを受講するか決められるらしい。私も、少し落ち着いたら観てみたい。どこで観れるかな。
(中野の矯正図書館で観れるらしい https://www.jca-library.jp)

ちょこちょこ書いてたら、やはり長くなった。

みんな是非見て!という感じの映画では正直なくて。途中、私はずっと電話相談を受けているような気持ちになって、結構しんどかったというか、じっとしてるの辛かった。でも見て、久しぶりにこの「聴く」 そして「話す」ことを考えている。

予告や紹介を見て気になる人は、きっと見た方がいいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?