なわとびでつなわたりをする方法について〜ディスり笑いの限界とその先
今も記憶に残っている、幼い頃の写真がある。
私は、子ども用の縄跳びの一端を持っている。プラスチック製の、蛍光色の、小学生ならみんなが持ってたアレである。もう一端は、父方の叔父の手にある。ふたりの間に、小さな池。たしかお墓参りの日の一幕だ。私も叔父も、体をのけぞらせて笑っている。
この前に起きたことを、私ははっきり覚えている。縄の片端を持った私を池のふちに立たせて、自分は反対側にまわり、叔父は私に言ったのだ。「つなわたり、してごらんよ」。
はああ!? できるわけないじゃん。「いや、できる! できるよ。大丈夫だから!」いやいや、できるわけ……「できるって! やってみ! できるから!!」
その気迫ったら、半端なかった。私が反論しようと息を吸う間に彼は「できる!!」を繰り返す。私に何も言わせない。「やってみ! できるから!!」
やってみないと、場が収まらなかった。片足を、自分で持ってる縄の上に乗せてみる。やっぱり、引っこめる。「できないよー!」「いや、できる!やってみ!」そろーり、足を出してみる。「ほら、できる! できるじゃん!」半分ぐらい体重をかけそうになって、やっぱり、足を引っこめる。「できないよーー!」あはははは!
写真は、その瞬間を切り取ったものだ。
叔父は、単純に私をからかっただけである。でもあの気迫を私は忘れない。はっきり言って、怖かった。あんなにゆずらず、「できる!」と言い張って、もし私が踏み出した片足に、体重を移していたら彼はどうするつもりだったんだろう。びしゃーーん!と水に落ち、ずぶ濡れになった私を見て、彼は大笑いでもするつもりだったんだろうか。「できるわけねーだろ!!」って。
私の中で、「笑いごとにできること」の限界が、最近、少しずつ狭くなっているのを感じている。いわゆる、だれかを笑い者にするタイプの笑いに、最近まったく乗れなくなった。以前は、笑えたのだ。むしろ、それこそが笑いの真価だとさえ思っていた。だれかの弱点やネガティブ面が、笑いに昇華するなんて、なんて美しいことだろうと思っていた。「運動神経悪い芸人」とか。「踊りたくない芸人」とか。
でもこの間の「アメトーーク!3時間スペシャル」で私は愕然とした。かつて大笑いしていた「運動神経悪い芸人」のVTRに、今の私はひとつも笑うことができない。バスケのシュートをしようとして、あるいはサッカーのゴールをしようとして、あさっての方向にボールが飛んでしまって脳天を直撃する、その姿を、スタジオの面々は指差してのけぞって笑っている。え、ちょっと待って、何だろう、この違和感の嵐は。
「どっきり」とかもそうだ。これについて私は一家言あるので言わせてもらう。かつて演劇ライターだった頃、とある舞台の製作発表の場で起きたことだ。
受付をして、取材席に通される。私と同じように取材しに来た記者やカメラマンが会場を埋め尽くす。時間が来て、演出家と出演者が壇上に登場する。しかし、主演俳優の姿がない。演出家が、おもむろにマイクを取って、得意げにこう言った。
「○○の姿がないので、おかしいなとお思いでしょうが、○○には、集合時間を1時間遅らせて伝えてあります。そろそろ、来る頃です。少しお待ち下さい」
やがて○○さんは本当に現れた。完全に私服で、カバンをしょって。会見はすでに始まっている。その光景に、彼はあぜんとする。そして、すべてを悟った。
「どういうことですかこれはーー!!」。壇上にいる面々に向かって彼は、待望されているキャラ通りのリアクションをする。壇上の面々が、彼を指差して、ころげまわって笑っている。
……面白いの、これ?? ちょっとびっくりした。「これからのコメディを担っていく演出家」とされている人の所業だった。そもそもこれは、舞台の宣伝を促すための会見なのに、その内容はひとつも響いてこなかった。ただただ、○○さんを高台から嘲笑する、そのためだけの会見。
ハメるのが、人目に飢えている若手芸人ならまだいい。しかし彼はもう40過ぎの、そこそこキャリアのある俳優さんだった。尊敬すべき仕事をいくつも果たしている。バラエティ番組では、壇上の彼らが待望したような、リアクション芸人的なポジションを与えられがちではあったけれど。
この日のことを思い出すと、今でも苦い気持ちになる。彼らの一方的などっきりで、私たちは無理やり、○○さんを笑う側にまわされてしまった。ちっとも面白くないのに。むしろ憤りさえ感じているのに。
「ブサイクいじり」や「独身キャラいじり」も最近乗れない。懸命なだれかを指差して笑う、という構図がちょっともうウンザリである。「芸人は笑いが取りたくて自分からやってるんだからいいだろ」的な声もあろう。うん、そうなの、そうなんだけど、カラクリに気づいてしまったんだよ私は。壇の上と下。強者と弱者。是が非でも相手より優位に立とうとすることの醜さ。
これは、老いなのかな。人はこうして、「若いモンの言うことはわからん」って、世代間断絶してゆくのかしら。かつて笑えたものについて、もう笑えないと気づいたのだから、かつて笑えなかったものについて、今度は笑えるようになりたい。人生における笑いの分量は、減らしたくない。減らしたくないんである。(2020/06/05)
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