ピンチの竜巻に巻かれても、生きてる。
2019年を振り返ると、だいたいの出来事は、7月以降に起きている。7月以前のことがあまり思い出せないくらいに、それはそれは濃ゆい下半期だった。
①大人なのに「手足口病」にかかる
②愛機MacBookが破損、真っ白に初期化
③給湯管の老朽化でリビングの床から浸水
④身内が高いところから落ちて大怪我
⑤メールアドレスが乗っ取られる
⑥派遣バイト先の親会社が業務停止命令
⑦長年の超お得意さま雑誌が休刊決定
以上のラインナップが、夏から暮れまで間をあけず、みっちりと襲いかかった。面白いのは、一番ダメージを受けたのが、⑥でも⑦でもなく、③とか④のあたりだということだ。③の時点で「もう絶対無理だ!!」って思った。④に至っては、傷だらけの当事者のもとに駆けつけて、泣いて当たった。これ以上なにをどうしろと言うのかと、空に問うても答えは返ってこない。
そう、③の時点で人生最大のピンチだと思っていた。しかし④が起きてみたら、③なんてまるで短いイントロみたいなものだった。それまでは「床張り工事のために部屋を引きあげる」こと自体がもうありえない苦行だと思っていたけれど、その苦行はわりとあっさりと終わりを告げた。なぜなら、私は、今までだったら取ることのなかった選択肢を取ったのだ。
「人の手を借りる」、という選択肢だ。
最初は、長年かけて部屋のすみずみまで積み重ねられた、生活の蓄積をどこからどう片付けたらいいのかさっぱりわからなかった。それに、パソコンとかプリンターとか、モデムだかルーターだかいう機器たちの接続を、私はこれまでさわったことがなかった。この部屋に入った最初の頃、ネットをつなぎに来てくれた業者さんが、つないでいったものをそのまま一切さわらずに、今日まで使ってきた。だから、そのぐちゃぐちゃと絡まったコードのたぐいを全部はずして動かすとなったら、私の手ではもとへ戻せない。
そしたら、引っ越し慣れした、メカに詳しい友人がやってきて、まず何から手をつけたらいいか考え、何と何がどうつながっているか、配線図を書いてくれた。配線図かあ……配線図ねえ……ぶっちゃけ、ピンとこなかった。その図を見せられたところで、私には、その配線を再現することができない。
そうかー。そうだよねー。友人の理解は早かった。じゃあ、床張り工事が終わったら、また来るよ。つなぎ直してあげる!
小さい頃から、「人さまにご迷惑をかけちゃいけません」って言われて育った。でも今回ばかりは、人さまにご迷惑を、かけないと私の暮らしはもとに戻らなかった。そしてここがミソなわけだが、首からタオルをかけて、汗だくでいそいそと配線をつなぎ直す友の背中は、なんだろう、とても楽しそうだったのだ。
人には、向き不向きがあって。私が苦手とするところを、得意とする人が別にいて。私にとっては苦行でしかなくても、その人にとっては、それが、楽しくてたまらない。そういうことが、この世界にはあるのだ。
ピンチは、自分ひとりで越えるものじゃない。
人生は、自分ひとりでやりおおせるものじゃない。
その後起きた⑤も⑥も⑦も、私の手ではどうしようもないことばかりだ。私ごときがどう頑張ったって防げない、ひっくり返らない事態である。こういうとき、普通だったら神さまとかを呪うんだろうな。でもそういう気持ちが、まるで起きない。めっっっちゃ暢気。
夏以降、私の身に起きた不運の竜巻は、見たことのない景色をいくつも見せてくれた。それらは、はっきりと、面白い景色だった。今度の竜巻は、私をどこに連れて行くんだろう。ちょっと、楽しみでさえあるのだ。
星とか方角とか、宇宙とか神さまとかそういう「自分ではないもの」が、自分の人生の主導権を握っているみたいな考え方を、私はもう、まるっと捨てようと思う。そういったものたちの力を借りて、ピンチを避けようとすることも。だってピンチは、必ず過ぎ去る。待っていれば、しかるべきところに、私を連れていってくれる。そしてこんなにも、愛おしい景色を見せてくれる。肝要なのは、起きたピンチを、いかに面白く受け取るかだ。
竜巻よ、私を遠く遠くへ運べ。着地した場所で、私は、いまだ生やしたことのない芽を生やそうと思うのだ。(2019/12/20)
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