愉快と不愉快がわかるようになったよ。
それはもう小さい頃から、私が「これが好きだ」と思っていたものたちを、果たして私は、ほんとうに「好き」だったろうか?
自分の「好き」への疑心暗鬼期が、もりもりとやってきている。
たとえば、私は落語が好きだ。寄席に出向けば身体がゆるむし、噺家さんのことは口開けて観入っちゃうし、これを「好き」と呼ばずして何と呼ぶんだろう。
だから、好きな噺家さんのCDを見つければうきうきとiPhoneに取り込み、むふふ、入れたぞと満足をして、
そのまま、聞かないのである。
これは自分でも長年の謎だった。どうして私は聞かないんだろう。「もったいなくて聞けない」とかなのかなあ、と自問してみるけれど、どうも違う。私のiPhoneには、「むふむふと取り込んだけれど結局聞いてない落語音源」がたんまりと入っている。どういうこと? これは何現象? 考えに考えて、思い至ってしまったのだ。
私は、落語を、そんなに好きではないんじゃないのか。
もうひとつ悟ってしまったのは、居酒屋でのひとり飲み。ああ好きだ。好き以外の何ものでもない。ひとりで飲むから、カウンターのお隣さんと会話することだってある。意気投合しちゃって二軒目に突入することもある。ビバ、人間。人間って素晴らしい。人間好きな私も素晴らしい!!
だけど、この前。久しぶりにそういうシチュエーションに出くわして、飲み込まれて、連れ回されて、はっきりと悟ってしまったんである。
私は、こういうふれあいは好きではない……!!!
知らない飲み屋さん。店員さんと懇意にしているらしいお相手。再来週に誕生日を迎えるという店員さんの、誕生日をこの店で祝おうと再会を誓う皆さん。いつのまにかメンツに数え入れられている自分。
この歳にもなると、自分のご機嫌に敏感である。人生の残り時間が減り続ける身の上、何が愉快で何が不愉快か、常に自分に問うている。
……私が好きなのは「ひとり飲み」だ。それに付随する「知らない人とのふれあい」はほんっっっっっとうにどうでもいい……!
そんなふうに思い至ってしまうと、芋づる式にこれまでの「好き」たちがよみがえる。映画、演劇、読書に音楽。数々の作家やアーティストたちが脳内をめぐる。
私は「○○が好き」だったんではなく、「○○が好きな人だと思われたかった」だけなんじゃないのか……!?
あーあ。気づいちゃったか。って脱力している自分がいる。でも、心のもう片方で、安堵している自分もいるのだ。もう二度と、不愉快なことに見舞われながら、無理に笑い転げなくていい。一刻も早く帰りたいのに、長く居座り続けなくていい。ああ、私はこれまでどれだけの時間を、そういう苦行に費やしてきてしまったんだろう。
私は、私の不愉快がわかるようになった。これは、進化だし、進歩だ。
これからは、愉快な方角にのみ、進む。(2022/01/25)
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