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「考える」は果たして無力なのか

あれこれ考えても、無駄なんだそうだ。

映画や不条理劇に出てきそうな事態が、日々、繰り広げられている昨今。オリンピックが回避されたとたんに感染者数は跳ねあがり、逼迫する農業従事者を救うべく、和牛の商品券だかが助成されるらしい。渋谷コントセンターあたりの皆さんにコント化していただきたいニュースが、連日タイムラインを賑わせる。

それでいて、町には賑わいが戻っているのだという。半月前には静まり返っていたのに、先日の三連休あたりから、いつもの人混みが町に戻ってきた。

かく言う私も、三連休の1日め、井の頭公園に出かけてしまったクチである。前日の「専門家会議」の会見内容が、そこそこシブいものだったので、人はいないだろうと踏んでいたのだ。だが、吉祥寺駅に降り立ってのけぞった。ぎっしりと道を人が埋め尽くしている。いつもの休日だ。いつもの休日の吉祥寺じゃないか。もともと、人混みをこよなく(?)忌み嫌う私は、速攻で戦列を離れた。

これは、あれである。みんな、はっきりと「飽きた」のだ。「自粛」をすることに。

深夜の渋谷、わいのわいのと盛り上がっている若者の集団に、ニュース番組がマイクを向けている。「目に見えないから、よくわかんないけど、若い人はかからないって言うじゃないっすかー」とか、言っている。

ああ、そうか。「自分が大丈夫かどうか」。彼らにとっては、それがすべてなのだ。

「自分が、症状が出ていない罹患者で、知らないうちに、誰かにうつしてしまっている可能性」とかは、まるで考えも及ばないのだ。

そうかあーー。おばちゃんは腕組みして考える。なんだかみんな、「考える」をしない。自分に見えている景色が世界のすべてだと思ってる。世界には、自分の知り合いしか住んでないと思ってる。想像力ってどこの国の何? 食べれるの?? くらいのもんである。

考えることは、無意味だ。考える前に動け、行動せよ。会いたい人に会い、食べたいものを食べろ。書を捨てよ、町へ出よう。そんな教えが世にはびこる。

果たして、そうだろうか。

新しいコロちゃん。専門家が束になってかかっても、謎だらけのシロモノだ。当然ながら、私たち素人が、なにができるというものでもない。だが、「おうちにいる」「ひとりでいる」ことが、私たちにきっと何かをもたらすと、想定することができないだろうか。

おうちで過ごす。ひとりで過ごす。家族とのみ、時間を過ごす。つまり、他者と切り離された状態で、日々を過ごす。どうだろう、今までにない、画期的な事態ではないか。

他者とむつみあい、時にご機嫌をうかがいながら、自分を場所ごとに順応させながら生きている日々。そこから、少し距離を置ける機会がやってきた。

「わたし」ってなんだろう。どこにも順応しない「わたし」は今、何がしたいだろう。何ができるだろう。ポール・サイモンは模様のない壁の前で、ギター1本で歌ってた。フェイスブックでその動画が拡散されていたので、母親に教えたら「涙出ちゃった」とメールが返ってきた。「最初、どこのじーさんかと思った」とも書いてあって笑った。

今しか見られない景色がある。今しか考えられないことがある。今しか聞けない歌があり、今しか読めない言葉がある。思考停止するのは容易い。けれど書を捨てて町に出づらい今だからこそ、どっぷりと考えてみようじゃないか。「あなた」と「わたし」の、ありかについて。(2020/03/25)

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