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母の「おてがみ」

小さい頃から、ひとりで過ごすのが好きである。

なにしろ「おるすばん」が大好きだった。家に帰ると、父も母もいない。静まり返った我が家に足を踏み入れると、言いようのないわくわくがこみあげてくる。寂しさとかはまったくなかった。ただ、自由がまるごと、そこにあった。それをのびのびと享受できていた理由を、最近、突然思い出した。

母が、いつも、手の込んだ「おてがみ」を置いていってくれたのだ。

母とは朝、学校に行くときに別れたばかりである。なんなら、あと数時間で、彼女は家に帰ってくる。なのに、まるで離れて暮らす娘に書き送るように、文字ぎっしり、イラストも盛り盛り、とてもカラフルでゆかいな「おてがみ」が、いつもテーブルの上に置かれていた。

あんなに毎回毎回、なにを書いてくれていたんだろうな。具体的に思い出せないのがもどかしい。「今日の晩ごはんはホワイトシチューだよ」「今日はポークソテーにしよう」……ああ、食べ物に関する記述だけはなぜか覚えているぞ。私の記憶力っていつもそれなのだ、小さい頃に読んでいた絵本も、食べ物関連の描写ばかりをいつも思い出す。「ぐりとぐら」。「からすのパンやさん」。「ぽんぽのいたいくまさん」。

母の「おてがみ」は彩りも完璧だった。文字のバックに色鉛筆でうすく彩られたイラストが描かれており、それらは義務感ではなく、ただ楽しくて描かれたものたちだった。

おとなになった私は、それを描いている母の姿を想像する。私と父を学校や会社へ送り出し、家事をいくらか片付けて、出かける前に、白い紙を1枚手にとって、ペンや色鉛筆を出してくる。そして、さっき別れたばかりの娘に語りかける。今日はどんなことがあったの? おかあさんはこれから、こんなところに行ってくるよ。

……愛されていたんだなあ。そんなことを、そっと思う。もちろん、母と娘だもの、いくつかの葛藤はある。どうしても相容れない地雷もある。そのことを危機的に悩み悶えたこともあったけれど、今は、心が尖りそうになったら、あの「おてがみ」を思い出すことができる。あの「おてがみ」たちはどうしたんだっけなあ。捨てた記憶はないけれど、実家を探したら、あるのかしら。当時の母は、今の私よりも年下だ。色鉛筆を駆使して夢中で描いてる彼女の姿を想像するたび、よしよし、って頭を撫でてあげたい気持ちでいっぱいになるのだ。(2020/04/08)

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