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「自分は鈍ってしまったんじゃないか疑惑」とうまく付き合ってく方法について

ちょっとやばいな、って実は思っている。頭のすみっこにはいつも、「チョットヤバイナ」の8文字はある。最初にそれが芽生えたのは、いつごろだろうな、演劇ライターとしての仕事が来なくなったあたりだろうか。

それまでは、週に2〜3本、何らかのユーメージンの皆さんにインタビューをしていた。そこにはいつでもある程度の緊張感があり、たとえば「失礼をこいてはいけない」とか「他誌では言ってないコメントを引っぱり出さなきゃいけない」みたいな緊張を握りしめながら、初対面のユーメージンさんに向き合い、心をほどいて、腹を割ってもらっていた。

仕事が来なくなり、演劇の仕事を手放さざるを得なくなって何年も経つと、あの「緊張を握りしめる」感覚がどこかに霞んでしまった気がする。この状態でゲーノーカイの取材仕事が舞い込んだとしても、「やれますっ!」って胸を叩くことが私にできるだろうか。もちろん、ひょっとしたら、やってみればできちゃうのかもしれない。長年の経験値があるのだから、基礎体力的な何かが、知らず識らずのうちに、私に備わっているのかもしれない。けれど私はこういうときに、自分を信じることがとても下手である。

ターゲットをユーメージンから一般の皆さんに移して、「ライフ・ストーリー」のライターを標榜するようになってからも、同じ現象が起きた。一時期はゴリゴリに営業活動をして、月に何本ものインタビューをこなしていたけれど、思うところあり、営業活動の一切をやめたのだ。自分の人生を語るという営みは、誰かに請われたり強いられたりしながら行うものではない。「語りたい」という思いが、誰に強いられるわけでもなく湧き出たとき、私のもとにたどりついていただいた方にこそ、精一杯応えようと、そんなふうに思うようになった。

そしたら今度は「インタビュー」そのものに緊張するようになったのだ。インタビューされ慣れていない方たちに、初対面で心をあずけていただいて、その人生を手渡していただくのだから、難易度は演劇ライター期の比にならない。それでいて、インタビューを行う頻度はガクンと落ちる。生計を立てるために、普段はインタビューとは関係のない仕事に就いている。つまり、自分が鈍ってるのかどうかを、はかる方法も手元にはないのだ。

こういうとき、他の大人たちはどうしているのかなあと思う。あたりを見回すと同世代たちは、若い頃からの経験を重ねて、その経験値を活かした生き方をしている。つまり何らかの「上司」になったり「教える側」になったりしている。私は長年続けてきたことどもを、居場所を変わるたびにいちいちリセットして、経験したことのない仕事に就いては、あわあわしている。人生、常に立ち泳ぎである。足の立たない深いプールの真ん中で、何につかまることもできずに、必死で手足をじたばたさせている。手足を止めたら、即、沈むのみだ。

この間、薬局で、50代向けの小冊子をもらった。「人生のハーフタイムとも言うべき50歳から人生を見つめ直して自分らしく生きよう」的なテーマの一冊だ。ぱらぱらとページをめくってみたけれど、今の私にとっては、「ごめん、それどころじゃないや」っていう内容ばかりだった。なにせこっちは立ち泳ぎ中だ。チャート式診断で「社交型」なのか「のんびり型」なのか「アクティブ型」なのかとか、老後に備えて趣味を増やそうとか、そんなこと言うてる場合ではまるでない。だって自分の足場さえ、まだ全然危ういんである。

ていうか「50代に向けての小冊子」を手渡される世代になったのだ私は。「大人になったら何になりたい?」の答えを、見つけられないまま46年が過ぎた。ただ一心に歩いてさえいれば、いつか、なにかに、なれるのだと思っていたけれど、ひょっとしたら、そうでもないのかもしれない。チョットヤバイナ。なにものにもなれない自分を、いつか、許せる日が来るのだろうか。(2020/06/15)

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