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「群れ」から離れたら本当に「おしまい」なのか

先ごろ、こんな記事を、読んだのだ。

映画やドラマやバラエティや、いろいろな作品に出たけれど、ある時期から「自分が必要とされていない」ことを実感してしまい、今は地方の競馬場そばのホテルでひとり暮らし。俳優仲間の役所広司さんが訪ねてくれようとしたけれど、マネージャーさんに「自分はいないと言ってくれ」と頼みこみ、気配を消したという独白であった。

身につまされてしまったのだ。自分が志していた世界に、「お前はもう要らない」って言われてしまったこと。これ以上しゃしゃり出ることも居座ることもできず、身の引き際を自分で決めて、自分で引き下がるしかなかったこと。「自分はもう要らないのだ」を自分では納得しているけれど、今も変わらずその世界で活躍する人たちを目にすると、ほんのちょっとだけ、目を背けたくなってしまうこと。全部、思い当たるふしがありまくりなのである。

Twitterを見ると、そんな記事に感化されて、つぶやきを漏らしている人が多くいた。「わびしい末路だ」という声も、「これが彼の幸せなのだからほうっておこう」という声もあった。そんな中に、こんな一文があった。

「60手前で、群れから離れたらおしまいだ」

これはツイートした人が放った言葉ではなくて、その人がかつて、別の誰かから言われた言葉だそうだ。それを読んだ私は、こういう価値観が存在することに、つまりこのフレーズを実感しながら生きている人がこの世に存在することに、あろうことか、動揺してしまったのである。

今まで、いくつかの「群れ」に身を置いたことがあった。けれど、どの「群れ」との関係も終わりを迎えた。「群れ」が解散したわけじゃない。「群れ」を構成する人たちは変わらずにそこにいるのだけれど、私が、そこから離れたのだ。自分から離れた「群れ」もあるし、はじき出されてしまった「群れ」もある。いずれにしろ、私と「群れ」とは長く続かない。どんな蜜月があっても。

きっと私はそういう体質なのだと思ってきた。そうとしかできない体質なのだと。だから今は、ひとりでしか実現し得ない幸せを大いに生きようと心に決めている。そこへ飛び込んできたのがこのフレーズだ。ああ、そういえば、って思う自分がいる。老いて孤立する日々ってどんなだろう。誰からも慕われず、誰も訪ねてこず、ただただ、ひとりで重ねる日々。身体が動かなくなって、自分でできることが少なくなってもなお、ひとりでなんとかしなきゃいけない日々。今の私の生き方を貫くとすると、間違いなく、そこへ向かってまっしぐらである。背筋が寒くなる自分がいて、思わず、そのようにツイートしたのだ。

そしたら、時間を置かずに旧友が言葉をくれた。「40を過ぎて、群れから離れる勇気もない方がおしまいだ」。ああ、そうか。たしかにそうだね。私はひとまず、小さく安心したのだけれど。

それでもなお、このことが頭の片隅にころがったままだ。

今の私は、「誰かと生きていく」ことを考えるだけで、そら恐ろしくなるほどに「ひとり」に順応してしまっている。どこへ行くにも、何をするにも、誰にも相談しなくていい。自分の行動に、誰かの納得を請わなくていい。最高だ。最の高である。結局、どこをどう生きていたって、絶望するときはするし、復活するときはするのだろう。「群れ」に身を置こうと離れようと、だ。要は自分が「これが自分の幸福である」と思えるか否かがすべてなのだろう。なのだろうけど。

私は今、いったい何に揺れているんだろう。今もまだそれを考え続けている。(2020/09/27)

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