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自分にできることは、自分じゃわからない。

レギュラーのライター仕事が2つ消滅するにあたって、私は「何だこのタイミング!」「何かのおぼしめしに違いない!」とかってはしゃいでいたけれど、考えてみたら普通に収入が減るんだぞ、ってことに昨日あたり、やっと気づいた。毎月、ちょうど、家賃分ぐらいの激減である。家賃! 家賃か! 急に心持ちが反転した。あわわ、どうしよう。

ここにも書いたとおり、私は「仕事の獲得」が死ぬほど苦手である。「自分を売り込む」行為の全般がダメ。これは大学卒の就職活動から続くトラウマなので、考えたらもう、25年ものだ。ちょっとした良さげなウイスキーが、充分に熟成を極めるくらいの年月。あふれるヴィンテージ感。

でも、あの頃と今が大きく違うのは、「居心地のいい職場を得たことがある」という点である。まさに今、その職場で働いているという点である。あの頃は、そんな場所など、自分にはありえないと思っていた。でも47になった今、はっきりと、それを、得ている。

これはなんだろうな、ってずっと考えている。まず、今の派遣会社に登録したこと。最初にそこで紹介された職場に、粛々と勤めおおせたこと。高校生の頃から磨いてきたタイピングの技術に、その派遣会社が気づいてくれたこと。今の職場の求人を私に紹介してくれながら、「年齢はオーバーしているけれど、オガワさんには技術と実績があるので、何の問題もないです!!」って根気よく諭してくれたこと。

つまり、「自分ひとりで居場所を探す」がよくないのだ。「自分の魅力を自分ひとりで語りきる」とか、「自分の能力を自分ひとりでアピールする」とかが無理。だって、自分の魅力や能力なんて、一番見えてないのは自分自身じゃないか。

自分の魅力を自分で語りきらなきゃいけない、自分ひとりでアピールしなきゃいけない。そう思い込んで、それらに取り組んだこともあった。でも、そうやって無理くりひねり出した言葉は、ほんとうに相手に響かない。それはそれは、目に見えて、届かない。その悲しみも、根深く胸に残ってしまった。

自分が、誰かにしてあげられてること。自分が、役に立っていること。それらをいちいち、自分でしっかり認識しながら生きてる人なんて、そもそもどれくらいいるのかな。本人はごく当たり前のことをしてるんだけど、それが周りにとっては想定外の作用を及ぼしている。世の中って結構、そんなふうに出来上がってるんじゃないのかな。

……ここまで考えて、あれ、私の収入激減問題はどこに行ったんだっけか、と思う。まるでどこにも行ってない。ずどんと目の前に腰を下ろしたままだ。

洋服とか靴とかへの物欲は、だいぶ前に消え失せた。今は、たまに、美味しいものを食べられればそれでいい。高いものでなくていい。定食屋でも、サイゼリヤでもいいから、ひと口運んで「んーーー!」ってなる瞬間に、私のストレスはだいぶ吹き飛ぶ。幸福がじゃぶじゃぶあふれて止まらない。

日々を幸福に生きてたい。ちゃんと家賃を払いながら。さあ、私の人生、どうする、どうなる。(2021/01/30)

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