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水母(創作)

 水が生きると書いてみおと読むその名前を羨ましいと思った。虫取り網を右手に持ち、シュノーケルマスクを装着し熱心に海面を覗き込む水生ちゃんはブラウンのギンガムチャックの水着を着ていて、正午の白い太陽はその丸められた背中を照し、水着の背中に誂えられた大きなリボンはまるで海辺を舞う蝶のようだった。薄水色の空は高く、引き裂いた綿飴のような鱗雲がどこまでも続いていた。鳶が一羽、大きな翼を広げてそれを横切っていった。手に握った砂は、波が来るたびに拐われてゆき、青い飛沫は私の体を乗せた浮き輪の周りでやがて白く泡立った。私の名前は聡明の聡に織物の織と書いてさおりで、別に自分の名前が嫌いな訳じゃなかった。だけれどその瑞々しい響きとか、シンプルなのに力強い感じがするところとか、きっとこういうのは無いものねだりと呼ぶものなのだろうけれど、とにかく水生と比べると聡織は堅苦しすぎるように思えた。

 私が水生ちゃん家の隣に引っ越してきた時、水生ちゃんはもうこの街に2年住んでいて、遊ぶ場所も秘密基地の作りやすい場所も水生ちゃんが教えてくれたから、そう言うこともあって、私たちは同い年だったけれど、私は水生ちゃんのことをお姉ちゃんのように慕っていた。そして水生ちゃんもまた、そんな風に慕う私を受け入れてくれていた。もしかすると、水生ちゃんも兄弟が欲しかったのかもしれなかった。ひとりっ子の水生ちゃんと私と私の妹の友希は、まるで仲の良い3人姉妹のようにいつも一緒に遊んでいた。大人たちがいれば、私は一層3人姉妹に見えるよう振る舞って見せた。5年生になってぐんと背をのばした水生ちゃんの手足は、背の順で前から2番目の私と違って、キリンのようにすらりと長く、格好良くて、本当のお姉さんのようだった。

 背中から母親に呼ばれる声が聞こえて振り返ると、砂浜は遥か遠く、まるで海の向こう側にあるかのように思えた。浮き輪に背中と両足を乗せた体勢のまま波に身を任せていたら、気づかないうちに沖の方まで運ばれてしまったようだった。戻ろうとその体勢のまま手で水を掻いてみても、その場でただぐるぐると回ってしまうだけで全く意味がない。歩いて戻ろうと浮き輪から降りてみれば、どんどん体は海に吸い込まれ、ドボンと鼻先まで水に潜ってやっと足先が砂を掠めた。これでは波に抗いながら踏ん張って進むというのは難しい。黒々とした波が迫る度、浮き輪にしがみつく私の足は砂から離れ、沖へ沖へと連れて行かれた。怖くなった私は、浮き輪をビート板のようにして両手で掴み、がむしゃらに足掻いた。波に揺すられる身体はすぐに方向感覚を失ったが、海に浸けた目を開けることができない。岸に向かっている自信はもう無かったが、そうする以外の方法が分からなかった。そのうちにぐんと身体が前進する感覚があって、顔をあげると水生ちゃんがいた。水生ちゃんが私の浮き輪を引くまで、私は水生ちゃんに気がつかなかった。

 浜辺に戻ると、母親はぎゅうと私を抱きしめた後、本当に心配したんだからと言って怒った。それから水生ちゃんと水生ちゃんのお母さんにありがとうと何度も声をかけると、水生ちゃんのお母さんはオレンジ色の大きなパラソルの下にいて、「良かったよぉ」と言いながら西瓜の入った透明なタッパーを開けた。水生ちゃんはそこからいちばん大きな一切れを手に取ってどっと腰を下ろすと、瓶に入った塩を大げさに振ってかぶりついた。「ちょっと!びちょびちょのまま座らないで」と水生ちゃんのお母さんが水生ちゃんに怒って、髪と体を乱雑に拭かれる水生ちゃんはまだ相変わらず西瓜を頬張っていて、まるで大きな犬のようだった。私も自分の体を拭いた後、2番目に大きな西瓜を選んで水生ちゃんの隣に座ると、軽い風がパラソルの下を通り抜けて、水生ちゃんの肩にかけられたレモン色のバスタオルは、石鹸と甘いミントの匂いがした。塩をかけた西瓜はあまじょっぱくて美味しくない。濡れた水着は冷たく、水生ちゃんの手首を伝って肘から垂れた水滴は私の太腿に赤い染みを作って、それでようやく私は強張っていた肩の力が抜けた。

 春に行われた運動会で、私は初めてリレーの選手に選ばれなかった。去年の8月にこの街に越して来るまで、私はクラスでいちばん足が速かった。幼稚園の時からずっとリレーの選手を務めてきたし、それが私にとって唯一の自慢だったから、水生ちゃんが全学年リレーの選手に選ばれた時、それが本当にさも当たり前のことのように決まってしまったから、私はどうすることもできなくて、教室の隅にある自分の席に座ったまま、ただ、ぼうっとそれを眺めているしかなかった。その日、私は水生ちゃんと初めて一緒に帰らなかった。私が断ると、水生ちゃんは「あっそ」とひと言って、ひとりでさっさと走って帰ってしまった。その背中を見送りながら、私は自分の態度を後悔していた。私は水生ちゃんに、少しでも良いから傷ついて欲しかった。惨めで可哀想な私にはそうする権利があるに違いないはずだった。悶々とした帰り道は長く、リレーの選手を取られた悔しさは、いつしか水生ちゃんに嫌われたらどうしようという不安に変わり膨らみ続けていた。結局どうすべきかの答えは出ないまま、涙を堪えながら玄関の扉を開けると、そこには水生ちゃんの靴があって、家に上がってみると、水生ちゃんは友希とドンジャラをして遊んでいた。私に気がついた水生ちゃんは「あれ?今日何か予定あるんじゃなかったの?」と驚いたのち、ちょうど良かったと言って「2人じゃつまんないから入ってよ」と私をドンジャラに誘った。

 友希が食べかけの西瓜を母親に押し付けて、シュノーケルマスクを使っても良いか水生ちゃんに聞いた。水生ちゃんはマスクのゴムの部分を友希の頭のサイズに調整してやると、そのまま頭につけてあげた。マスクはまだ友希には少し大きく、装着すると顔の半分以上がマスクで覆われてちょっとヘンテコだった。「隙間から水が入っちゃうかもしれないけど、仕方ないね」水生ちゃんがそう言って送り出すと友希は海に向かって駆けて行った。

 運動会の当日、緑色のハチマキを額にキュッと結び、ひとつに結われた髪を左右に揺らして全力疾走する水生ちゃんはまるで若い馬のようで、颯爽と走り抜ける姿に私は思わず見惚れてしまった。4クラスあるうちの誰よりも速かったし、どんどん差が開いていく様は私たちのクラスだけでなく緑組全体をわあっと熱狂させた。私は嬉しくて、私と水生ちゃんの関係をみんなに自慢したくなった。悔しい気持ちが無くなった訳ではなかったが、敵わないということにこの時小さくも正確に分かってしまった。

 目の前の浅瀬では水生ちゃんのシュノーケルが空に向かって突き出して揺れている。時々、友希は立ち上がってマスクに溜まった水を海に捨てた。何度か行ったり来たりを繰り返した後、友希は眉間に皺を寄せながら帰ってきた。「お母さん、見て。痛いの。」そう言って差し出された二の腕は赤く腫れ上がり、無数の細かい水疱が腕に巻き付くように帯状にひしめき合っていいた。母親はそれを見て飛び上がると「ちょっと救護室行ってくるからお願いしていい?」と動揺した声のまま水生ちゃんのお母さんに頼んだ。水生ちゃんのお母さんは友希の腕を観察しながら「ミズクラゲかな・・・。病院行っといた方が良いね。私車取ってくるから」と言って、荷物番は私と水生ちゃんが任されることになった。水生ちゃんのお母さんは離れがけに慌てて振り返ると、「もう絶対海には入らないでね」と私たち2人に念を押した。

 水生ちゃんは西瓜の皮をタッパーに放ると、肘から手首に向かって垂れた汁を舐め上げ、そのまま手の甲で口を拭った。それから砂場セットの赤いバケツを自分の方に引き寄せ中を覗くと「人間って、どのくらい体の中に水が入ってるか知ってる?」と私に聞いた。
 頭を寄せて覗いてみると、水が張られたそのバケツの中では透明の小さなエビやら魚やらが泳いでいる。「知らない」
 「人間って60パーセントは水なんだって。赤ちゃんは80パーセントで、大人になるとどんどん減っていくって」水生ちゃんの掌がバケツの中で透明な魚を追いかける。
 「それってほぼ水ってことじゃん」
 「ね。でもそれには理由があって、人間って元々海の生き物だったからなんだって」
 「海の生き物だったからほぼ水でできてる・・・ってこと?」
 「そうじゃなくて、例えばこのバケツの中の魚たちは今陸にいるけど生きてる。この赤いバケツが人間の外側で、この中の海水がうちらの中にある水ってこと」
 「じゃあ、この体はバケツってことだ」私は自分の体を指さした。
 「そう」
 「じゃあ、人間の中にはちっちゃな海がそれぞれあるってこと?」
 「すごいよね」
 「でもさ、そしたらうちらの本体はこの魚ってことじゃない・・・?」
 「ふふふ。そう」
 「それは信じらんないよ」
 顔を上げると水生ちゃんの顔がすぐそばにあって、水生ちゃんは私を見て、その細い目をもっと細い三日月の形にして笑った。
 「でも、遥か昔の人間の祖先は水母みたいな形だったって聞いたことがあるし、もしかしたら人間の魂って本当は水母の姿で体の中を漂ってるんじゃないかって思う時があるんだよね」
 そう言った水生ちゃんは少し照れた顔でバケツの中に視線を戻していて、どういう訳だかわからなかったけれど、私はその表情を私以外の人に見せてほしくないと思った。薄茶色に日焼けした肩は皮が少し捲れて、鎖骨から乾いた砂がこぼれ落ちた。

 「くらげってね、水に母って書くんだって」
 そこまで水生ちゃんが話してくれた時、水生ちゃんのお母さんが私たちを呼んだ。振り返ると、海岸入り口の、細い階段の上に停められた白いボックスカーの前で、こちらに向かって大きく手を振っている。私が立ち上がって手を振り返すと、水生ちゃんのお母さんは両手をメガホンの形にして口元に添えた。「悪いんだけど、荷物、こっち持って上がってきてくれるー!?」閑散とした昼下がりの浜辺に、水生ちゃんのお母さんの声がぼんやりと響いた。

 水が生きると書いてみおと読むその名前を美しいと思った。その名前が似合う水生ちゃんはやっぱり羨ましかったけれど、水生ちゃんの名前は水生ちゃんのためだけにあるとも思った。とんぼの群れが潮風をくぐり抜けて通り過ぎた。水生ちゃんには言わなかった。水生ちゃんの体の中を漂う水母は、大胆で、自由で、きっと目も眩むほど綺麗に違いないだろうと思ったけれど、それは私がそう思いたいだけで、もしかしたら違うのかもしれない。
 私は両手いっぱいに荷物を抱えたまま砂浜を全力で走った。蹴り上げた砂がふくらはぎで弾けて、薄く伸びた影に足が潜った。西に傾き始めた太陽は波打ち際をさらさらと照らし、泡立つその感情を私はまだ知らなかった。バケツの中身を海に還しに行っていた水生ちゃんも私につられて走った。2人の笑い声は近づいて、重なって、すぐに追い抜かれて、水生ちゃんの背中で髪が跳ねた。水生ちゃんの海で水母が跳ねる。私の海の水母も跳ねる。夏は、音も立てないまま



主題・夏が終わる/スピッツ

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