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杏仁豆腐のテーマ

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杏仁豆腐という名前のバンドを組んでいる妄想をたまにします。はじめましてのご挨拶として読んでもらいたいお気に入りの記事をまとめてみました。
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ある秋の一日(創作)

 4つ折りにされた1万円札を差し出した母の指先は乾いていて、「これ、弘恵さんから」と言う声はその指先以上に乾いていた。何も言わずそれを受け取って、もう伯母さんも知っているのかとうんざりした。まだ安定期じゃないのだからあまり言わないでくれとあれほど言ったはずなのに。母親の口の軽さ、というかデリカシーの無さに懸念はあったものの、それでもなお唯一母親にだけは言おうと決めたのは悪阻が本当に辛かったから。24時間続く吐き気と倦怠感と眩暈。憂鬱から解放される時間は眠っている間だけで、それ

青春の真ん中に立っていた日

 週に1度ができなくても続けたいと書いてから結局、7月は1度もnoteを更新できなかった。それでも書く気は一応あったようで下書きに書きっぱなしにされたものがひとつ転がっていたので少し直して載せようと思う。8月になっちゃったけど、七夕のはなし。  高校時代のことをもうあまり覚えていない。思い出せるのは所属していた吹奏楽部のことばかり。あれは高校生活第一日目、その入学式がいざ始まろうという最中、出席番号1番のNちゃんは挨拶もそこそこに身を乗り出すと、出席番号3番の私の顔を覗き込

杏仁豆腐のテーマ

 夏は苦手だ。つけっぱなしにされたクーラーのせいか外の暑さのせいなのか、とにかく夏はずっと体が重たい。これはもう毎年そうなのだから仕方がない、夏バテだ。出来るだけ日中は外に出ないようにするしかない。仕事に就いている時も、8月は何かと理由をつけて休んでばかりいた。  そんな夏だから、活動できるのはもっぱら夜だけだった。夏の夜は短いけれど、それでもあの生温くて明るい夜は歩いているだけでも楽しい。毎年誰かを誘ってはビアガーデンに行った。週末は決まって渋谷へ行ったし、真夜中の秋葉原

私の私による私のための愛の定点観測(31歳地点)

 21歳の誕生日を迎えたばかりの私はルーブル美術館にいた。今から10年前、若さと無知という無敵の友人達と仲良く手を繋いで日本を飛び出した私は、初夏の清々しい日差しと乾いた風の吹く6月のパリで、肥大化した自意識と時間を持て余していた。  別に宇多田ヒカルぶるわけではないが、21歳の私にはモナリザもミケランジェロもなんてことはなかった。大階段の下から見上げたサモトラケのニケは荘厳なオーラを放っていたと思うが、残念ながらそれに感動するには人ごみに疲れ過ぎてしまっていた。  それ

谷底から見上げた夜空はあまりにもロマンチックで

 こんな夜を私はあと何回迎えられるだろう?昼間の甘ったるさを引きずった生ぬるい春の夜風に髪を撫でさせながらそんなことを考えてしまう。もし今日がその最後の夜だったとしても、残念がる隙もない程に幸福な夜だったと確信した時、少し熱の引いていた興奮はあっという間に再燃し、波のように寄せては返す感動に体が飲み込まれて行くのを私はただ静かに眺めていた。  お守りのようなとある夜の、感情のスケッチ。感想文という名のラブレター。 𓃹  4時に目が覚めてしまう。あまり眠れなかった。中途半

春の天気とチョロミーのパジャマ

洗濯物を干そうとベランダの窓を開けるとピューッと冷たい風が部屋に吹き込んだ。最近は暖かい日が続いているからと昨晩半袖に替えたばかりのパジャマから伸びた腕に鳥肌が広がる。 春はいつもそうだ。桜が満開を迎えたと思ったらその週の終わりにまるで台風のような嵐がやってきたりする。月曜日の朝、ピンク色に染まったアスファルトを見つめながら私は己の無力さにただ打ちひしがれる。 子どもの機嫌と春の天気はよく似ている。ある日バスに揺られていると、それなりに混雑した車内のどこかから生後半年くら

パンに挟んだのはきゅうりだけじゃなくて

私は今、きゅうりを絞っている。指の間から溢れた雫はステンレス製の流し台にエメラルドグリーンの小さな湖を作っていた。95%以上が水分で出来ているという。自分のアイデンティティとも言える水分をこれでもかと絞られて、きゅうりは一体何を思うだろう。 「最低でも2回は絞りましょう」有本葉子さんは言う。きゅうりの気持ちを考えるととても3回も4回も絞れないので、2回でやめておいた。 私には、密かに注目している男の子がいる。週に2−3回、すれ違う高校生の男の子。あれはいつもより少し寒い冬

恥という名の果実

「じゃあ、2番、読んで」  小学六年生の国語の時間。出席番号2番の私は突然指名されたことにパニックになりながらもできる限り平静を装って指定された箇所を音読した。ある程度読み進め一息ついて顔を上げると、教室にいる全員がポカンとした顔でこちらを振り返っている。え?????何?????状況が全く理解できずフリーズしている私に向かって、教壇に立つ先生から「あーごめんごめん、2番の人読んで。じゃなくて2段落目のところ、各自読んでって意味だったんだ」と信じられない一言が放たれた。これは流