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労働の味

労働の味。というものがあると知ったのは、わりと最近のことだ。

そう、僕が結婚をして両親となった2人の事業を手伝うようになってからのこと。

両親は、牛飼いをしている。
乳牛を60頭近く飼って、365日、毎日の朝晩と世話をするのだ。
もちろん、仕事はそれだけには収まらず、機械の整備や、牛糞の処置も兼ねた堆肥の作成、様々な問題ごとの調整(ことに、世間知らずで、分からず屋の娘と息子から持ち込まれる問題が多い)も含まれる。

僕は、半年ほど前からこの事業の手伝いをさせてもらっている。

朝は7時頃に牛舎に出て、干し草以外に牛が食べる混合飼料を攪拌器に入れて混ぜ合わせる。
前の晩から、ふんだんに排出された牛糞を溝にかきだし、ベルトコンベヤーのスイッチを入れ、これを回す。
行き着く先には、小型のトラックの荷台が待っていて、こいつはそっくり堆肥小屋へと運ばれる。
すっかり空になった溝に、敷き藁を切って敷き詰める。

飼料を混ぜる攪拌器や、藁を切る道具は、何ともレトロでみんなも一回手にした方がいいと思う。
優に半世紀は現役で活動をしている。
無駄のないデザインと機能的な働きは、グッドデザイン賞のそれも顔負けである。やはり、昔の道具は丈夫でシンプルいて、何かそこに一度しか起こらない出来事が生じている感覚があり、心地がいい。

乳を出す牛と、乳を出さない牛(まだ幼く初産を迎えていない子や、間乳と言われ出産間近の乳を出さない子のことを言う。)は、また違った牛小屋にいるので、今度はそっちの方に赴き、同じように掃除をする。

朝は、自分の事業もあるので、そこでお終い。
着替えて、ご飯を食べたのち、食品企画販売を主とする自らの仕事が始まる。
と言っても、優秀なスタッフや奥様が居てくれているので、随分と楽をさせてもらっている。
(僕は、幸運にも朝晩は義理の両親、日中は奧さんと仕事をしていることになる。昭和の後半から絶滅危惧種になってしまった、家内制手工業。)

晩には、早めにご飯を食べて、大体6時半くらいから再び牛舎に出る。
朝の作業に加え、晩は牛さんたちへの干し草の供給も行う。
僕の仕事は、そんなに難しい作業はない。
搾乳や牛さんの健康管理などの難しい仕事は父と母が専業でやっているので、あまり触れることはない。
ただ、ひらすら、糞尿の処理と、飼料の調合。
それに、ネズミを見回る、ねこさんたちのご機嫌とり。

月に5日くらいは、ヘルパーさんという方が手伝いに来てくれるので、お休みを頂く。
また、出張(と言ってもほとんどないのだけど。)の際にもお休みを頂く。

1日3時間半くらいの、都合の良い、にわか農業従事者ということになる。

僕には、才能がないので、2つも、3つもしている。(たまの出張と呼ばれる仕事には、大変に恐縮ながら人様の前でお喋りをするお仕事を頂いている。)

何分にも不器用で、心の弱い自分に許してあげられる働き方が、たくさんの理解者、応援者、協力者のおかげさまで、現在のものとなった。

ことに、頬を刺すような寒気と共に吸い込む、木々の香りと、仄かに牛舎の匂いを含んだ朝一番の酸素。
手を擦りながら、リフトのぶっきらぼうで気分屋なエンジンをかける瞬間。

晩に牛舎での仕事を終え、真っ黒な夜空で点滅する飛行機を探しながら野に向けてする放尿。
(獣害対策の一環で、マーキングのつもりでわりと真剣にやっている。)
それまで見回りや、放浪の途にあった、ねこさんと競って家に駆け込むその瞬間。

僕には、それらの時間に労働の味を感じる。

自らの身体が、それぞれの運動に必要な筋肉を動かし、たべるものをつくる現場。

生きるために、仕事をしている。

何かを奪って、生き長らえている。

目の前にある、何かを、自分の側に手繰り寄せて、得ている。

労働の味には、それらの後ろめたさや、虚しさも、当然のように内包され、差し出される。

丸呑みにして、味わうほかこれをやり過ごす方法を、僕は知らない。


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