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愚者の弁明

客人の迎え方がよく分からない。

かの太宰治も同様のことを晩年の紀行文『津軽』で残している。
とても、チャーミングな文体で共感ポイントが多く大好きだ。

これを少々拝借させて頂き、私の煩悩を露見したいと思う。

“これは私においても、Sさんと全く同様なことがしばしばあるので、遠慮なく言うことができるのであるが、友あり遠方より来た場合は、どうしたら良いかわからなくなってしまうのである。
ただ胸がわくわくして意味もなく右往左往し、そうして電燈に頭に頭をぶつけて電燈の笠を割ったりなどした経験がある。             ― 中略―                               そうして、Sさんの如く、実質的においては、至れに尽せりの心づかいをして、そうして何やらかやら、家中のものを一切合財持ち出して饗応しても、ただ、お客に閉口させるだけの結果となって、かえっ後でそのお客に自分の非礼をお詫びしなければならぬなどということになる。ちぎっては投げ、むしっては投げ、取っては投げ、果ては自分の命までも、という愛情の表現は、関東、関西の人にはかえって無礼で暴力的なことに思われ、ついには敬遠ということになるのであるまいか、と私はSさんによって自分自身の宿命を知らされた気がして、帰る途々、Sさんがなつかしく気の毒でならなかった。”                    太宰治『津軽』より引用

どうしても、一生懸命にもてなしてしまうのだ。
現金収入が少ないため、もてなせばもてなした分、マイナスになることなど点で気がつかないように、あれを食べろ、これを持っていけ、迎えが必要か、送ってやるから。と、できる限り思いつくものをやってしまうのである。

一番びっくりされたのは、「これ、素敵ですね。」と言われた手編みの竹籠を持ってけ、持ってけとプレゼントした時だろうか。

もちろん、客人もお土産や、買い物やらをして帰ってくれたり、帰宅後に贈り物を送ってくれたりもしてくれる。
(竹籠のお返しは、美味しいお漬物がやってきた。大人って、素敵。)

楽しんで帰って貰いたいが先行して、どうも自分の能力(財政状況も含める)以上のことをやりたくなってしまうのだ。


同様に、客人の仕方もよく心得ていない。

必要以上に、他者の時間を奪ってはいないか、ホストの迷惑にならないことをしていないか。と気になり、お土産の選定の段からあたふたとしている。

半径1.5メートル圏内に結界を張り、それに触れるものに不快な念が入っていないかと確かめながら進んでいる。

ちょうど、地雷を撤去する方が探査機のようなモノで恐る恐る進む様は、もはや人ごととは思えない。

なにも、自分は敏感で繊細なので、ごめん。
なんて言うことが目的でこのようなことをうだうだと書いているのではないのだが、なんせ始終そんな調子であるから、ホストにも気を使われてしまい、最終的には、極力迷惑にならないところを探して、彷徨うことになる。
(大概、端っこの方で、外の景色やら、なにやら壁の方を見ながら帰るタイミングを見計らっている。)

大人数のパーティーなんて、誘われた折には、1週間も前から会場での身の置き場が不安で、憂鬱になり、落ち着かない。

詰まる所、社会的に人間と上手く距離が取れないのである。
愛情表現の仕方が間違っているというか、人の所業を違えているというか。

それも、段々と経験で分かってきたので、大変に申し訳ないが、訪問者の対応に関しては、ある程度お断りをしたり、お金を挟ませて貰ったりするようになった。

無防備に、迎えてしまうと、日常に支障をきたし、ひいては家族や僕自身にもよくないと判断したからだ。

同様に、赴く方も、極力控えることにした。
必要最小限で、お逢いした方に誠心誠意注力ができるように、予定も一つに絞って話をさせて頂くようにした。
(お仕事関係は特に必要に応じて元気で参りますので、ご安心を。)
そのときの感動は、その都度、家まで持ち帰りたいが為である。

それでも、やっぱり、“社会”に対してなにか働きかけさせて頂きたくて、僕は文字を書くことにした。

大好きな言葉で、誰も気にしないかもしれないけど、誰かしらがいることを仮定して、おーい。と声かけをして見ている。

薄々は気がついてはいたのだけども、もう、文字にしか縋れないのである。

だから、文字を書くことにした。

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