他人を信用できない理由

 自分以外の人間はすべて虚構の存在であり、自分は常に外の何者かから監視されている──。そんな妄想を抱いたのは、小学生の頃だったと思う。いつも考えていたわけではないけれど、その思いは幾度か頭を巡り、あらゆることに対して疑いを抱いたものだ。

 後年、藤子・F・不二雄氏の短編集を読み、タイトルは忘れたが、かような感情は多くの人間が抱くものだと書かれた作品に、なるほどとうなずいた。自分だけではないのだとわかり、妙に安心したのを憶えている。

 映画の「トゥルーマン・ショー」、あるいは筒井康隆氏の「おれに関する噂」でもいいが、あのように自分は常に監視されているのではないかという思いは、程度の差こそあれ、多くの人間が持っているのではないか。それをフィクションとして楽しめるうちはまだよくても、真実であると思い込んだら、とてもまともな生活は送れまい。陰謀論者に陥り、破滅するのみである。

 そこまで極端ではなくても、他人が信用できないというプロットの作品は、数多くある。わかりやすいところでは「遊星からの物体X」がそうだし、ミステリーやサスペンスなら、ほとんどがそれを描いていると言えよう。そういう作品が好まれるということは、ひとびとは潜在的に他者を疑っているのではないか。だからこそ登場人物に感情移入し、こいつは敵か味方かとハラハラするのである。

 では、どうして他人を疑うのか。それは確実に信用できるものが自分しかいないからだ。

 自分が自分であることは、誰もが知っている。しかし、他者が同じく自己を持っているとは証明できない。それこそ、己以外はすべて虚構という論も成り立つ。

 なお、ここで謂う自分とは、ひとりの人間のみを意味するのではない。自分が自分であるとは、つまり「存在」の証であり、いっそ「宇宙」と言ってもいい。だからこそ、何者かが外から自分を見張っているなんて疑念にも囚われるのだ。

 ともあれ、自分は自分であるという思いが強まれば、そのぶん他人という存在は希薄になる。自分と同じく確かに在るのかと疑いたくなる。すなわち、自己を唯一のものと認識することで、他者は「自分以外」のものとなり、わかり合うことが難しくなるのだ。

 思うに、信仰はそもそも疑いの気持ちから生まれたのではないか。他者を信じられないから、より大きな存在を創造し、信じられるものとして崇める。それに縋り、安らぎを得るために。

 事実、狂信的な人間ほど他者を排除し、信じるものに固執する。そこまでになると、自分自身も信じられなくなっているのかもしれない。

 他者を信じられないというのは、自己を持つ人間の宿命とも言える。なぜなら、私が存在する以上、私は考えねばならないのだから。考えても間違いなく存在すると言えるのは、己のみである。

 まあ、他の生き物に自己認識があるかどうか、わかるはずがない。もしかしたらあらゆる生命は、他を信じていない可能性もある。

 さて、あらゆることを疑った小倉少年がその後どうなったかと言えば、ごく普通に日常を送っている。少年時代の妄想は、時おり思い出すことはあっても、きっとそうだと信じることはない。思考実験として面白がる程度だ。信仰に縋ることもなく、神様ではなく人間を信じている。

 そうなれたのは生きてきた中で、多くのひとと繋がりを持てたからだ。傷つけられることも、傷つけることもあった。その鬩ぎ合いの中で様々なものを得て、今の自分がいる。特に家族を持てたことで、本当の安らぎを得られた気がする。(とは言え、苦労も山ほどある)

 自分が自分であるのは確かでも、自分を自分にしてくれるのは他ならぬ他者だ。そのことを忘れずに、今後も作品を書いていきたい。