問題と課題と言語化の話
例えば、朝起きて身体がだるかったとする。
風邪をひいているわけでもない。
睡眠時間が足りていないわけでもない。
それじゃあ原因はなんだろう、と考えた時に、そういえば昨夜はいつもより深酒をしてしまったっけと思い出し、今度はビール2缶までにしようと、ちょっとばかり反省する。
職業職種にもよると思うが、「問題と課題の違いは何か」のような議論はビジネスにおいて耳が痛くなるほど登場する。
僕も最初に聞いたときは、「ふーん」という感想と「正直よく分からん」という思いとが同居していたのだが、結局のところ僕らは日常生活の中で、この「問題」を考え、「課題・解決策を設定すること」を当たり前のようにやっていると気づく。
先述の深酒の流れがまさにそれで、この際の問題は「身体がだるいこと」、課題は「深酒をやめること」、解決策は「ビールの本数を決める」といった取り組みになる。
この際、例えば「枕があってないから買い換える」とか、「風邪以外の病気を疑う」とか、
課題をあらぬ方向に設定してしまうと、また深酒を繰り返し、再び気怠い朝を迎えてしまうわけである。
(もしかしたら、それらも要因なのかもしれないけれど。)
という話をしていると、「解決策よりも、問題や課題の特定と設定が大事なんですね」と結論づくことが多いが、大前提としてきちんと言語化してあげることが大切だと思う。
多分、そのメリットは2つ。
1つは、仕組み化。
咳の原因ひとつとったって、気管支炎なのか花粉症なのか、花粉症ならばスギなのかヒノキなのか色々あるわけで、じゃあイネならばこういう薬が効きますよと決められているわけである。
問題なんて多種多様だけど、ひとつひとつを丁寧に分析していけば、大抵の場合は先人が決めた仕組みに乗ることができると思っている。
2つ目は、安心感。
よく分からない症状に悩まされていても、医者に「ただの風邪ですよ」と言われれば、じゃあ治るじゃんと前向きになれる。
この場合は、相手の権威によって変わってきたりもするけれど、それはまた別の機会に。
面倒臭いことをつらつら書いてきたのだが、最近抱えていた自分の悩みをようやく言語化できて、良かったなあという、それだけの話。
この記事の読後感が悪いという問題の背景には、「結論から話していない」、「さりとてオチもない」といった2点の課題があると思うので、次回から気をつけますん。