私はリチャード・ジュエルが犯人だと思う(200202)

〇今日は一日中ゼルダをやっていたので、昨日見た映画の話でもしよう(ちなみにゲームは本当に真剣にやった)。

〇「リチャード・ジュエル」を見た。舞台はアトランタオリンピック当時のアメリカ。イベント会場で爆弾の第一発見者となり被害を可能な限り抑えた英雄と呼ばれるも、一転して事件の容疑者となり、メディアと捜査官から突き付けられる言論の刃に、友人の弁護士と立ち向かった警備員リチャード・ジュエルの、ノンフィクション映画だ。つまり、えん罪との戦いだ。結論としては、丁寧に描かれていて面白かった。

こういったえん罪を扱う映画では、おおよそ共通する感想として「メディアは真相など無視して金が儲けられればいい下衆」「警察機関は誰かを検挙すれば仕事をしていると勘違いしている不当権力」があり、実際この映画もメインの敵としてはそういうものだった。

しかし、私が最も強く感じたのは、「私がその場にいても、絶対にリチャード・ジュエルが犯人だと思ってしまうだろうな」という、もやもやとした不安というか、落胆だった。

そもそもリチャードがなぜ疑われたかというと、「爆弾魔っぽいやつだから」もっと具体的に、作中の表現を引用すると「母親と二人暮らしの醜いデブ」だったからだ。

こんなことを言えば「印象だけで決めつけてひどい」「偏見」と非難されるのは当然だ。しかし、劇中のリチャードは、はっきりいって印象が悪い(※)。太っているほか、リチャードは「正義」に執着しており、雇われ警備員の領分を超えて動こうとしたり、異常なほどの記録癖・整頓癖があったり、ガンマニアだったり、虚栄心が強く、自分の推測を事実のように語ったり、うんちくをひけらかすようなしゃべり方をする。そして、そのような諸々を差し引いて、リチャードは人相が「犯人っぽい」。劇中で出た報道ニュースをみて、「あー、ガチでいかれた人の顔だ」という感じなのだ。リチャードが犯人でないと知っている観客の私でさえそうなのだから、もし当時の現場に私がいたら、私はテレビや新聞の報道を真実だと思い、一刻も早いリチャードの処罰を望んだだろう。

そのテレビ・新聞のやり方も非道で、捜査もあからさまにリチャードを犯人に仕立て上げようとしているのだが、ifの私は全くそんなことに気づかないだろう。

日本でも、容疑者の報道など、日常茶飯事で、特に凶悪な事件が起こると、まず私は顔写真を見て「ああ、犯人の顔だなあ」と思う。本当は容疑者で、ともすれば無実の人を、だ。

昨今、どんなにメディアを疑え、自分で考えてみろとよく言われるが、それでも事実は9割が印象で決まってしまうのだ。私は凡人だから、犯人じゃない人が犯人らしい印象でもって紹介されたら、確実に犯人だと思う。そんな自分の見方への不信感が、この映画の収穫だ。

蛇足な話だが、ニュースで、明らかにこんなやつ犯人だろ、早く逮捕しろ!なんて、思うこともある。しかし99%犯人の容疑者が、1%で犯人じゃなかったら。なかなか判断しない警察とメディアは、実はとても実直で優秀なのかもしれない。

まんがを読んでくださいね。