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これまでのこと~「生まれてこないほうが良かった」のだろうか?~

「反出生主義」(アンチナタリズム)というのを初めて知った。反出生主義というのは「“私は生まれてこないほうがよかった”、“苦しみのあるこの世界に子どもを産まないほうがいい”。そうした考え方のことです。」ということらしい。

 生きるのが辛いと感じた時、「私は生まれてこない方がよかった」と考えたことは何度もあるし、無邪気な子供の姿や笑顔を見たときに、純粋に 「かわいい」と思うより先に、「この子もこの苦しい世に生を受けてしまったのか」と思うこともよくある。そういう意味では僕は堂々たる「反出生主義者」(アンチナタリスト)なのかもしれない。しかしそれを、公にしたことはない。公にしたところで、「きっと生きていればいいことがあるさ」に類する、 気休めにもならない言葉をかけられるのがオチだからだ。

たしかにその言葉にも一理ある。ただ生きていれば、なにか事態が好転する可能性もまったく無いことも無い。 が、 ただ生きているだけでは、 「人生は生きるに値する」と心の底から思えるほど事態が好転する確率は非常に低いと思う。というようなことを、 軽々しく「きっと生きていれば云々」と投げかけてくるような人に対して返事をしようものなら、もう何も話しかけてはくれなくなるだろう。「めんどうくさい人」として放って置かれることは
確実だ。思っても口にできないことをこのように公にして、 それらしい形で発表してもらえると、内容の詳細は別として、そう思っているのは自分だけではないのだと、すこし孤独感が埋められる感じがする。

決して、この思想を口にすることで、身近な人を傷つけようとか、不満があってなにかを変えてほしいとかまでは思っていない。でも、なぜかこの考えが定期的に去来してしまうのだ。

「デイヴィッド ベネターという哲学者の『生まれてこないほうが良かった』という本が出版されました(※原著は 2006年、和訳は 2017 年に出版)。ベネターは理詰めで「生まれてこないほうが絶対いいんだ」 ということを彼なりに論証したと主張します。」

生まれてこない方がよかった、 ということを一生懸命に主張することで、真っ正面からの批判や反証が出てくることを期待したのだと思う。「生きるとはこんなに素晴らしいんだよ」と自分なりに納得できる「なにか」 が本音ではほしかったのだと思う。「自分なりに納得できるなにか」というのが非常にやっかいだ。いろいろとこじらせてしまっているから、たぶんなかなか納得することができないし、納得したくないと思う自分もいるからやっかい
だ。前もブログで書いたけれども、 僕は僕なりに日々の「珍しい植物の花を見る、 育てる」「食べたことのないものを食べる」 「知らなかったことを知る」 ことで、 なんとか小さな自分なりの「生きる喜び」 を積み重ねて生き延びてきた。

「生まれてこない方がよかった」と思ってしまう人は、その言葉の後に「のか」つけるといいかもしれない。ついでに「ほんとだろうか」も。我々(生まれてこない方がよかったとおもってしまうひとびと)は、そうでない、のほほんと生きている人に対して、鋭い問いを突き付ける役割を担っているのかもしれない。彼らを怯えさせて、ほんとにのほほんと生きてるだけでいいのか、と。ボーっと生きてんじゃねーよと。

 URL 本文にもあるけれど、 「生まれてこない方がよかった」 論が活発になることで、 反証や批判がされて、世の中がよりよいものだと感じる人が増えることを僕も願う。

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