空堀商店街を訪ねる ~テレビ大阪「おとな旅あるき旅」番組、案内人役撮影話~
こんにちは。大阪ガスネットワーク(株)エネルギー・文化研究所の栗本智代です。
私は、関西・大阪の活性化のため、まちの歴史や文化を楽しくわかりやすくご紹介する公演活動を展開しています。また、大阪の街を歩きながら、まちづくりを支えているキーマンの話を含めてその魅力を綴るフィールドワークも試みてきました。そんな中、たまに、テレビでのまち歩き番組や探訪コーナーで、案内役を依頼されることがあります。今回は、テレビ大阪「おとな旅あるき旅」での大阪の下町商店街を訪ねるスペシャル番組で、空堀商店街の歴史案内人役を依頼され、改めて見直した同商店街界隈について、大阪人・関西人なら絶対知っておいてほしい、基本のキを中心にご紹介します。テレビ番組制作スタッフの方は、この街を全く知らない人が何を疑問に思い、何に興味を持つか、という視点で台本を作られるため、初心に戻って、まずはまちの基盤を押さえることの大切さを学びました。
1.空堀商店街は、いつ頃からあった?
空堀商店街は、大阪市内を南北に走る上町筋から谷町筋を経て松屋町筋まで、東西約800メートルにかけて連なる、まさに都心の商店街です。上町台地の斜面にあたるため、特に、谷町筋から松屋町にかけて下り坂になっており、こんな傾斜がある商店街は珍しいのではないでしょうか。
商店街の形になっていったのは、明治の終わり以降大正にかけてだと言われています。
もともと、上町台地には、聖徳太子の時代から、お地蔵さんとともに人々の暮らしがあり、江戸時代には、町の各所に祀られるようになり、人々が願いをかけるという信仰が根付いていました。空堀の地域では「空堀地蔵の定期市」が開かれるようになり、それが市場として定着していったようです。
この地域は第二次世界大戦、大阪大空襲の戦災から免れていますが、それはお地蔵さんのおかげだとして、戦後も地元の人々がお地蔵さんを大切に保存して祀っていると、撮影では、その1つである火除け地蔵を紹介しました。しっかりと雨風をしのげるように祀られて清掃も行き届いており、地域の方が護り、また護られているのを感じさせられます。
(時間の関係で放映はされませんでしたが、この商店街へ行かれた際は、お地蔵さんを見つけてみてください。)
2.空堀とは?
空堀と書いて「からほり」と読みます。かつて、豊臣秀吉時代の大阪城は、その敷地が大阪城公園の約4倍の広さがありました。東、北、西には、それぞれ水堀がありましたが、南だけはなかったので、その防御力を高めるために、水のない空っぽの堀をつくりました。幅が約30から40メートル、高さが約10メートルもあったようで、南惣構堀と言われていました。敵がなかなか攻め入ることができず、大阪城が難攻不落と呼ばれた名残を知ることができます。ただ、大阪冬の陣の後、徳川家康がこの堀も埋めてしまいました。
商店街から少し南へ、細い石畳が続く坂道を降りたところに、その堀の痕跡がわかる空間があります。古い地形を大切にしながら整備されたもので「田島北ふれあい広場」と名付けられており、深い段差が体感できるので、ぜひ足を運んでいただきたい場所です。
3.大阪のだし文化を支える老舗
空堀界隈は、大阪大空襲などの戦災を免れたため、昔ながらの町家や長屋が残っている地域です。大阪の住文化が刻まれた木造のぬくもりある家屋を今に活かそうとリノベーションが行われ、新しい洒落た店が界隈のあちこちに出来、第2第3の大阪を味わいたいと若い観光客がよく訪ねてきます。市販されている大阪観光のガイド書には、長屋再生ショップがよく紹介されています。
さて商店街は、というと、新しく入ってきた店も多いですが、昔ながらの老舗がしっかり残っており、蒲団屋、豆腐屋などは、商店街ならではの懐かしい店構えです。その中でも、番組では、大阪のだし文化を支えてきた「こんぶ土居」と、「鰹節丸与岡田商店」をじっくり取材されていました。
もともと江戸時代から明治にかけて、北海道と本州の交易は船で行われており、北前船で大阪へ昆布が運ばれていました。特に、大阪で陸揚げされた、北海道・道南の、真昆布のだしは、濃厚なうまみがあり、そのだし文化は、大阪の食文化、ひいては、日本料理の味を支えてきたといえます。また、大阪の料理は、旬の食材をまぜて、それぞれを引き立てあう「出会いもの」の文化。和歌山や高知、鹿児島にあがる鰹を加工した鰹節からもよい出汁がでますが、昆布と出会うことで、合わせ出汁が生まれました。また、同じ出汁でも、季節によって、昆布と鰹節、鮪節なども入れながら配合の比率を変えていくという日本料理店の店長の話を聞いたことがあります。空堀商店街で長年営業されている「こんぶ土居」も「鰹節丸与岡田商店」も、選び抜かれた商品が店頭に並んでいました。「こんぶ土居」は、すぐ近くに「昆布ミュージアム」をオープンされており、また「鰹節丸与岡田商店」は店内に、古い写真を掲示されていたりと、時代を超えて大阪の出汁文化を支えてこられた事を物語る博物館としても、価値を感じさせられました。
4.今回は、撮影台本に入らなかったお話
撮影の計画当初、実は松屋町筋も取り上げる予定で、ロケハンを行っていました。
松屋町は、おもちゃと人形の町としても有名ですが、一方で、意外と知られていないのが、紙と印刷のまちで、本の卸業者もあり、そこへ漫画家の手塚治虫が本を買いに来ていたという話があります。
もともと、江戸時代に瓦職人がつくった人形を商うことからはじまり、問屋街として、紙や文房具、おもちゃなどの店が集まっていました。近くには、印刷屋も軒を連ねていたそうで、特に、戦中から昭和二十年代半ばにかけて、仙花紙という粗末な再生紙の問屋が数多く集まり、この仙花紙を使って、表紙が赤い漫画本「赤本」が松屋町で作られて発行され、玩具店で売られていました。大学生だった手塚治虫はよく松屋町に通って本を購入しており、後に、この界隈から、『新寶島』『メトロポリス』など初期作品を発行して、注目を集めるようになります。手塚治虫ワールドは、松屋町から生まれ羽ばたいていったといえます。
実際に、空堀商店街あたりから松屋町方面へ歩くと、小さな紙屋さんや印刷屋の看板が何軒か見られ、松屋町筋には、人形やおもちゃ屋さんが目立つ中で、決して大きくはないですが文房具店も目に留まりました。残念ながら、関連のあるお店の取材が難しかったとのことで、松屋町筋商店街は今回のロケ対象から外すことになりました。しかし、意外と知られていないエピソードがあるものだと、まちの奥深さを感じさせられました。
今回のロケは、2023年6月24日(土)、テレビ大阪の「おとな旅あるき旅 ~下町の名物商店街ぶらりスペシャル~」にて放映されました。旅人の三田村邦彦さんと歌手の丘みどりさんは、地元ならではの美味しいものに舌鼓を打ちながらも、商店街の店主や通りすがりの方とも笑顔でおしゃべりを楽しみ、まちの歴史にも興味深く色々と質問を投げかけられていて、撮影部隊全体がとても和やかな雰囲気でした。短い時間でしたが、大変貴重な経験となりました。
※写真掲載については、テレビ大阪様許諾済み
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