見出し画像

【シリーズ】街角をゆく Vol.8 仁川(宝塚市・西宮市)

こんにちは。エネルギー・文化研究所の山納洋(やまのう・ひろし)です。
僕は2014年から「Walkin'About」という、参加者の方々に自由にまちを歩いていただき、その後に見聞を共有するまちあるき企画を続けてきました。
目的は「まちのリサーチ」です。そこがどういう街なのか、どんな歴史があり、今はどんな状態で、これからどうなりそうかを、まちを歩きながら、まちの人に話を聞きながら探っています。
この連載ではWalkin'Aboutを通じて見えてきた、関西のさまざまな地域のストーリーを紹介しつつ、地域の魅力を活かしたまちのデザインについて考えていきます。
 
今回ご紹介するのは、兵庫県西宮市と宝塚市の市境にある仁川。阪急仁川駅の周辺です。
 
仁川は六甲山頂近く石の宝殿の南側に源流を持ち、六甲山脈に降った雨を集めて甲山の北側を東流し、仁川渓谷を抜け、武庫川に注いでいます。
阪急仁川駅は大正12年(1923)に開業、以降に周辺で住宅開発が始まっています。昭和4年(1929)に関西学院大学が上ヶ原に移転したことで周辺は文教地域となりましたが、一方で昭和16年(1941)には良元村に川西航空機宝塚工場が設けられ、海軍機の製造が行われました。同工場は昭和20年(1945)に空襲により大半が破壊されています。戦後に跡地の払い下げを受けた日本競馬会はここに競馬場を建設、昭和24年(1949)より阪神競馬が開催されています。
 
下の図は、WEBサイト「川だけ地形地図」で仁川部分を取り出したものです。

出典:川だけ地形地図(平26情使 第964号) 加工:山納 洋

仁川の水はもともと、下流側にある大市庄(おいちのしょう)五ヶ村(段上村・神呪村・門戸村・上大市村・下大市村)の田畑を潤していましたが、寛永18年(1641)には、社家郷山のふもとの湯の口から、夙川につながる水路が掘られています。
この年は大変な旱魃で、鷲林寺新田村・広田村・越水村・中村・社家郷村の村人たちは、社家郷山に降る雨は自分達の村のものだとして、湯の口(現・甲山高校付近)から鷲林寺新田方面へ流れる用水路を作ろうとしました。これに対して大市村五ヶ村(段上村、門戸村、神呪村、上大市村、下大市村)の人々はこの工事を再三妨害し、一触即発の事態となりました。その時に廣田神社の神官であった中村紋左衛門は一計を案じ、天狗の面をつけて待ち構え、夜に用水路を壊しにやってきた妨害者たちを驚かせて仲裁しました。そのことで流血の惨事は回避され、工事は無事進み、用水路は嘉永20年(1643)に完成しています。この功績をたたえて、広田・越水・中村の農民達が建てた「兜麓底績碑(とろくていせきひ)」が、現在も廣田神社に残されています。

廣田神社内に残されている「兜麓底績碑」

この頃までは、上ヶ原台地は低木の生えた草地や荒れ地でした。そのため村落や耕地は台地を下った平野部に営まれ、上ヶ原は周辺村落の採草地として利用されていましたが、承応元年(1652)頃、大坂西成郡佃村の孫右衛門・九左衛門らによる開発がなされ、同地は豊かな水田の広がる農村へと生まれ変わりました。これが上ヶ原新田です。上ヶ原での田畑を潤す用水路は、仁川渓谷をさかのぼったところにある大井滝から取水して作られています。
新田開発により田畑が増えたことで、今度は下流側で水が不足するようになりました。当時の尼崎藩主の青山幸利は、藩費で社家郷村のためにため池を掘り、その代わりに仁川からの引水量を減らし、上ヶ原に回す分の水量を確保しました。この時に作られたのが、目神山大池(甲陽大池)と岩ケ谷大池(新池)です。
 
その後も大市庄5ヶ村と上ヶ原新田の間では、水の分配をめぐる争いが繰り返されました。その解決のために、安政3年(1856)には新たに五ヶ池が掘られました。そして上ヶ原用水路には分水樋が設置され、各村の普請での功績に従って用水を堰き止めている石の切り込みの長さを変え、上ヶ原・大市庄74.8%、門戸11.6%、神呪13.6%の分配率で水が配水されるようになっています。

上ヶ原用水路の分水樋

時代は下り、昭和43年(1968)には、西宮市は上水道水源地として甲山南麓に北山貯水池を作り、湯の口から取水した仁川の水を集めています。ただし、西宮市はその後神戸市、芦屋市、西宮市、尼崎市の4市で設立した阪神水道企業団から琵琶湖・淀川水系の水の供給を受けるようになり、今では北山貯水池はサブ的にしか使われていないそうですが。

北山貯水池

仁川が武庫川と合流する手前の南側にある百間公園の南側には、百間樋用水が流れています。これは武庫川の水を仁川の南側に流すために仁川の下を掘って作られた用水路です。
百間樋は、天正2年(1574)に引かれたと言われています。約900m北の武庫川右岸から取水し、仁川下流まで引水し、そこから木製の樋を使い、仁川の川床の下に長さ百間の水路を作って水を引いていました。この用水を引いたのは大市庄の5ヶ村で、彼らが井組(ゆぐみ)を組織して水を分配して、後に旧瓦林村の9ヶ村も井組に加わっています。
このように、近世の水問題を解決するための用水デザインは、なかなかに複雑で興味深いです。

百間樋用水

平成7年(1995)、阪神淡路大震災の発生により仁川右岸の斜面で大規模な地すべりが発生しました。家屋13戸が流失、34名の方が亡くなっています。
兵庫県は平成9年(1997)に、地すべり地の復旧対策とあわせて仁川百合野町地区地すべり資料館を設置しています。当時の被害状況や土砂災害の仕組み、復旧対策の事業内容などが学べる防災学習の場となっています。

ちなみにこの地すべりの現場の上には、上ヶ原浄水場があります。この浄水場ができたのは大正6年(1917)、設置主体は神戸市です。明治に入り、人口増による水需要の増加に対応して、神戸市は三田市に千苅貯水池を、西宮市上ヶ原に浄水場を開発し、三田から宝塚、西宮、芦屋を経て神戸に至る神戸水道を敷設しました。この時の土地造成と、戦後に下側の谷に盛り土によって住宅地を造成した部分で、この地すべりは起きています。
仁川は、このように、水にまつまる様々な歴史を我々に教えてくれる存在なのです。

仁川百合野町地区地すべり資料館にあるジオラマ模型

※【シリーズ】街角をゆくは、不定期で連載いたします。

<CELのホームページ>
エネルギー・文化研究所の活動や研究員を紹介しています。ぜひ、ご覧ください。

CEL【大阪ガスネットワーク株式会社 エネルギー・文化研究所】 (og-cel.jp)