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関口安義著・評伝 松岡譲 の検証 4

戦後の和解の欺瞞

関口氏の評伝では、戦後の久米と松岡の和解について触れている。松岡が疎開していた長岡に、久米が訪ねて行く。表向きは食料調達だが、版権が切れる漱石全集を他の出版社から出したいという事について、松岡と相談するのが本来の目的であったという。(個人的にはこれも久米の口実で、松岡に会いたかったのではないかと思うが証拠となるものはない。)そうして長岡に滞在した久米の宿に、松岡の方から足を運び、親し気に話し、和解が生じたという。その後、2人で講演会や合同書画展、漱石文学賞の設立などの行動を共にした―。数十年来の和解の、美しい友情の物語のようであるが、実は違うようだ。同著に紹介されているこの時期を振り返る松岡の手紙(著者である関口氏に宛てたものであるという)には、久米への悪意で満ちている。講演内容への批判はともかく、人間性まで不当と思われるほどに醜く書かれているのだ。久米は派手好き、でしゃばりや・・・しかし、この手紙をよく読むと久米が松岡をたてているのがわかる。前座は自分がやるから、真打ちは君がやれ、と語っているのだ。松岡には、久米の想いが汲み取れない。それだけではない。久米が亡くなった後の随筆にも、久米との和解は一切触れず、久米を罵倒している。溢れるばかりの悪意に見ているのだ。
松岡は、久米を再び友として遇した訳では無かった。
では何故に自分から足を運んでまで、交友を復活させたのか。利用したのだろう。漱石山房再建のために。久米は本当にこの数十年前から松岡と和解したいと繰り返し公言し続けてきた。裏切られても憎まれても、嫌がらせをされてさえ、その友愛の情が枯れる事は無かった。松岡の著作には目を通し、作家として公平な批評をしつつも『あれほどの男が義父の忘備録で終わるはずがない。いまにもっと大きな仕事をするだろう。』と応援し続けてきた。松岡は、その久米のいささか度を過ぎた人の好さに付け込んだ。久米は生涯を人気作家として名を馳せた。文壇の重鎮であった。その久米も、自分から歩み寄ればすぐにいいように扱えるのを知っていたのだろう。松岡は、こういうことが平気で出来る人物であったのだ。久米は松岡を買いかぶりすぎていたというしかない。松岡はタイミングを計って『漱石山房再建のために、今後も一緒に合同書画展をやって、その売り上げを費用に当てよう』と語り、感激した久米は泣いて畳に額を擦り付けたという。ここで、久米は実に見事に松岡に丸め込まれている。勝手なことを書いて悪かったと謝罪する久米と、許す松岡。その癖、松岡は久米の死後さえ許せずに恨み辛みを随筆に書き綴った。松岡とは、そういう人物なのだ。最もこう来ると、久米も人が良いというよりは何か問題があるともいえる。いくら何でも若い日の友情に夢を抱きすぎだったと言わざる得ない。

芥川の言葉『深い経験』とは何だったか

作家が人格高潔である必要はない。旧友を利用するならすればよい。実際、価値観が激動した明治から大正、昭和初期の作家は破天荒な素行の人物が多い。(その最たる2人が太宰治と島崎藤村だろう。)
しかし、作家ならばその自分の中のエゴと対峙するべきだ。自らのエゴを見つめ、作品に投影し、普遍化させる。それが作家の『仕事』であり、上記の2人は見事にそれを成したから歴史に残る作家となった。松岡にはそれがない。
この戦後の和解から遡ること20余年前。松岡と筆子の婚約が決まった時に、芥川は『今回の事で君が一番深い経験をしたはずだ』と手紙に書き送っている。それは親友を裏切って恋を取った、自分のエゴと向き合えという事ではなかっただろうか。実際、これだけの経験をしながら松岡は『深い』作品を書くことが出来なかった。敦煌物語、モナリザ、法城を護る人々の初期稿を読んだが上滑りな文章と薄い内容というのが素直な感想だ。モナリザは、出だしからどうしようもない。美文を書こうとして失敗しているのだ。文章の構成が崩れている。ニ連目で主語を省略してしまっているために、非常にわかりにくい文章になっている。もう少しセンテンスを短くして、分かりやすくしないと読者は風景を想像することができない。ただ上滑りな美文のような文章を読まされるだけだ。この後も上滑りな文章が続くため、その後に来るレオナルドは幸福だった。という文章が生きてこない。どのように幸福なのか、どう感じたのかが伝わらないために、読者は感情移入できない。

同様の事は敦煌物語でも言える。こちらは『これがご自慢の楼蘭経さ。あの有名なスタインベックの・・・』とある。しかし楼蘭経やスタインベックを読者が知っているという前提で進めているのか、その後だらだらと似たような言葉が進む。上記の二つの説明が来るのがずっと後であるために読者の興味を引っ張ることが出来ない。要するに、文章の構成ががたがたなのだ。なお、この作品を井上靖が絶賛し、敦煌を書くきっかけとなったとあるが。それは推敲前で現在で回っている敦煌物語よりずっと短いものだったという。もしかしたら、そちらの方が読みやすかったのではないだろうか。

法城を護る人々は、(文章は悪くないが)モチーフを絞り切れておらず、内容が薄い。ただ、この三作の中ではもっとも文章がまともだ。

松岡の三作品を読んで驚いたのは、年々文章が下手になっているという事だ。結婚後すぐに鏡子夫人に執筆を止められなければ、あるいはもう少し良い作品が書けたかもしれない。書かなかった時期、その時期にかつての友人たちにおいて行かれた焦りが作品に投影されたのだろうか。なお、関口氏は戦後の松岡を指して『書きたいものが時節柄書けなかった。不遇の作家』と評したが、時代の空気を捕らえることもまた作家の仕事ではないだろう。小説はその時代と寝なければならないというのは、誰の言葉だったろうか(※)そういう意味においても、松岡は小説家としての資質に大きく欠けていたのだろう。

※2020年5月頃の読売新聞文芸欄だったと記憶している。

終わりに

数回に渡って関口安議著、評伝・松岡譲の内容を検証してみた。誤認では済まされないものばかりであった。『久米という悪人のために文壇から抹殺された不遇の作家』という筋書きが先にあり、その筋書きのために松岡に不利な情報は無視され、久米の人間性を落とす情報は捏造までされている。この本が出たのが1991年。その頃、久米の著書の多くは絶版となっており、一般人は引用された久米の著作を確認することが出来ない。関口氏は卑劣にもそこをついたのだ。久米の全集が再版されるのは、その二年後となる。私もこの再版された全集が無ければ、騙されていたところだった。私が大きな危惧感を抱くのは、この関口氏が漱石山房の企画展の監修をしている点だ。この件については次回触れたいと思う。が、まずは関口氏監修の企画展を許可した漱石山房と新宿区には猛省を促したい。

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