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全身の細胞が狂喜した質問に答えます

全身の細胞が狂喜したことに気付いた僕は

この場を利用して感謝するとともに

「この喜びのままに、この熱量のままに質問に答えてしまったら、相手が消し飛んでしまう」

そう思ったことをお伝えします
(それくらい嬉しくて😋)

かといって
手加減するのも嘘だなと
思いやりという名の
相手をナメてる行為だなと

そう思ったので
www.
world wide webを経由して答えます

まずは分解します
(分解って言葉好きです。分かって解るって、どんだけ“わかって”くれるんだ優しい!器大きい!って)

いい感じ

僕にとっての「いい感じ」を
常日頃から集めてます

誰かにとっての「いい感じ」は知りません
無視してます

あくまでも、僕にとっての「いい感じ」です
それを日々、水を飲むように、自分に取り入れてます

で、その引き出しを人を撮るとき開けます
必要に応じて

お洒落

僕にとっての「お洒落」を
常日頃から集めてます

誰かにとっての「お洒落」は知りません

そもそも
僕は(「いいね」とか)共感を欲しがるのをやめて
僕自身が感動したいがために生きてます

それを「孤独」と捉えて
ネガティブに捉える人もいるかと思います

「誰も求めていない」「お金にならない」とも

それを僕は「唯一無二」と捉えていますし

「僕が求めている」「このために生きている」とも思っています

「そんな写真、誰も求めてないからやめろ!!」
そう言われても撮りたい写真
撮るのをやめない、やめられない写真があるとしたら…
僕は見たいです
だから撮るんです

やめろ!!って言われたらやめてしまう人が多いとしたら
やめないだけで、少数派になれる
自分の(希少)価値を高められる
誰かの代わりではない僕になれる

そう思うからやめません

やめろ!!って言われてやめる程度のことなら
写真に関わらず
やらない方がイイとさえ思います

本気かどうかのボーダーラインって
そこにある気がします

人撮るコツ

そういうものがあったとして
それを意識して自分が撮られるとしたら

僕はイヤです

機械的というか
方程式に当てはめられてる気がしてイヤです

そこから生み出される写真は
体温を感じない
冷たいものなんだろうな…って思うので
僕はやりません

そもそも僕は
人を撮ろうとしてません

僕は写真を撮ろうとしてない

「写真を撮る」なら誰でもできると思ってますし
(スマホあるし)
「キレイに撮る」ならお金払えばすぐやってもらえると思います
(仕事欲しがってる人はたくさんいるし)

じゃあ何で撮ってるのかというと

僕が写真を撮る理由

一言にまとめるなら「気持ちイイから」です

食欲、性欲、睡眠欲に続いてある欲「撮欲」です

さらにいうと

僕が欲しがるモノ

僕は「問い」を大事にしています

それは、自分を知るための「問い」でもあります

僕は僕を知りたくて
それはとても果てしない問いで

写真はそれを少しだけどわかりやすくしてくれる道具
神様が僕に与えてくれたヒント・優しさだと思ってます

「好き」の自給自足

自分のことを好きじゃないくせに
人からの「好き」を欲しがる奴、僕、嫌いなんです

日本人8000万人くらいは嫌いってことです
(そもそも、好きな人なんて1人いればイイですし)

僕は「何かに夢中な人」が好きになったので
僕も何かに夢中になろうと思い立ち
気付けば「人生を楽しむこと」に夢中になれたと思います

その中で写真の影響は大きいです
写真のおかげ様で
僕にとっての「好き」に気付きやすくなったので

“好きなものは撮りたくなる”

そういうシンプルな判断基準が僕の中にできたのは大きいと思います

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